2019年10月23日

「学校はブラックな職場」言説の〈相対化〉


教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。


そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。


〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造


日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。






【今回のポイント】

「学校はブラックな職場」言説を脱構築(déconstruction)せよ。
しかし,「こどもたちをより良くする」という教育の〈真理〉を解体してはならない。



「学校はブラックな職場」との言述行為が,学校現場を未経験の受験主体を教職から回避させている現実がある。


受験主体の中にはホントウに乳幼児・児童・生徒のためになる教員の卵もいる(た)はずである。


「ブラック」を言述することはその言述主体の意識裡に,意識/無意識を不問として「ホワイト」があるからである。


「ブラック/ホワイト」は二項対立(物心二元論・西洋思想)の思考性によるものであり,「ホワイト」のイメージは教員によって異なるものもあり,共通するものもある。


二項対立は自我中心主義(≒エゴイズム(egoism))を生産し,教職員によって異なる「ホワイト」は自我中心主義(≒エゴイズム(egoism))の産物である可能性が高い。


そうした二項対立を止揚(aufheben)したジンテーゼ((「総合」のこと。「㋑《〈ドイツ〉Synthese》ヘーゲル弁証法で、相互に矛盾する定立と反定立とを止揚すること。合(ごう)。」(コトバンク:総合(読み)そうごう(英語表記)synthesis,そう‐ごう〔‐ガフ〕【総合/×綜合】,デジタル大辞泉の解説,出典 小学館)))のない土壌に教職員に必須の授業力,創造力及び豊かな人間性((参考:「すなわち,「はじめに」で触れたとおり,‘子供のためであればどんな長時間勤務も良しとする’という働き方は,教師という職の崇高な使命感から生まれるものであるが,その中で教師が疲弊していくのであれば,それは‘子供のため’にはならない。教師のこれまでの働き方を見直し,教師が我が国の学校教育の蓄積と向かい合って自らの授業を磨くとともに日々の生活の質や教職人生を豊かにすることで,自らの人間性や創造性を高め,子供たちに対して効果的な教育活動を行うことができるようになることが学校における働き方改革の目的であり,そのことを常に原点としながら改革を進めていく必要がある。」(「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申),中央教育審議会,平成31年1月25日,p.7)))は生産されない。


なぜならば,表層でいくら「乳幼児・児童・生徒のため」と言述しながら,内実,自己中心化の発想が基盤となっているからである。


ホントウの意味での〈乳幼児・児童・生徒のための自己組織化(self organization)((「生命の発生や社会構造の成立に見られるように、混沌状態から複雑な構造が自律的に形成されてゆくこと。循環や自己言及などの哲学的問題ともかかわりをもつ。」(コトバンク:自己組織化(読み)じこそしきか(英語表記)self organization,じこそしきか【自己組織化】,大辞林 第三版の解説,出典 三省堂)))〉を教職員たちに望む。









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2019年10月19日

〈言語(運用)能力〉の育成を主眼にした朝の一斉読書!!(vol.1 The host's nightly big incident )

教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。

そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。

〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造

日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。



本ブログは「〈言語(運用)能力〉の育成を主眼にした朝の一斉読書!!」と題するブログの第1章に当たります。今後,第6章+αまでを綴る予定です。主に,「朝の一斉読書―〈読み〉―言語(運用)能力等の育成」について,その連関性に着眼しながら語ります。その間,教員採用候補者選考の受験主体向けの「読むこと」に関する情報提供も簡潔に行います。

章構成は次のとおりです。
なお,第2章以下全て仮題です。

  1. 第1章 ホストの夜な夜な大事件―The host's nightly big incident ―(本ブログ)
  2. 第2章 朝読書ーReading effect
  3. 第3章 The 読書ーCrisis!!
  4. 第4章 読書指導の意義と現状の課題に対する改善策―SUMMARY
  5. 第5章 〈言語(運用)能力〉の育成ーUrgent problem
  6. 第6章 家読―Home reading
  7. 〔付記〕電子書籍の活用
  8. 参考文献・資料等


本ブログにおいては,本ブログ作成の趣旨から国語教育の範疇にある〈読み〉について深入りは致しません。ただし,朝の一斉読書を考える上において,それは非常に大切なポイントであることに相違ありません。「読者反応理論(読者論)/読書行為論」など〈読み〉に関する論争を踏まえるとき,決して看過できる事柄ではないのです。仮に,「朝の一斉読書は〈読みの世界〉とは次元を異にする,そうした趣旨の取り組み(学校での実践)ではない。」とする主張があるとするならば,朝の一斉読書においても読書行為が対象となる限り,その枠組みからは解放されず,そのような主張は自己にパラドックスを内包し,破綻を来していると述べざるを得ません。

作品には〈命〉があります。その〈命〉を探し求める〈旅〉が〈読むという行為〉です。その〈旅〉の過程で読みの主体は〈自己内対話〉や外在する他者との〈対話〉を営みます。つまり,「書くこと」「話すこと」「聞くこと」をも総合することにより,各読みの主体の〈読み〉は《読み》と変貌します(=教育活動では,このような営みを学習主体が行うように教授者が仕掛けるのです)。結果,〈相対化能力〉,創造力,想像力,思考力・判断力・表現力,総じて言語(運用)能力は高まり,感性・情緒は豊かになるものと考えられます。こうした思考は筆者独自のものではありますが,こうした考え方が成立するならば,朝の一斉読書を現状の趣旨からではなく,〈新しい時代〉を生きるための資質・能力を育成するため,新たな角度から再検討する必要があると思うのです。



早速,第1章の幕開けです。


第1章 ホストの夜な夜な大事件―The host's nightly big incident




平成5年9月21日,当時,28歳だった筆者は,(当時)文部省若手教員海外派遣団カナダチームの一員として,全国から集結した23名の新進気鋭の先生方と共に渡加。サバイバル(survival)を基調とした教員・語学研修とSchool board((カナダでは州単位でSchool Boardが存立しています。各州の教育を司る教育委員会のようなものです。))を初めとする各種教育機関等への表敬訪問(視察)及び配属校での勤務の旅に出立したのであった。




2週間に及ぶ過酷な語学研修の後,筆者が単身で赴任した街はバンクーバー(Vancouver)から車で45分の長閑なLangley(British Columbia州)であり,配属校は耳にするだけで蕁麻疹が出そうな((詳しくは「塾長のカナダ武勇伝(?)―その2 語学研修Ⅰ-」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.2.24)をお読みください。))「Walnut Grove Secondary School」( Langley School District(ラングレー教育学区))((現在の日本の公立中高一貫校に当たる学校で,当時約1,200人程度の中高生が在籍していました。))だった。








【こちらの当塾オリジナルジャンル「教育コメディー」も楽しめますよ!!】







バンフの街を見下ろすロッキーの山々


ホームステイ先のホストファミリーには恵まれた。当時29歳でトム・クルーズ(Tom Cruise)似のAと27歳で故ダイアナ妃に瓜二つのB(teacher)は献身的に筆者のお世話をしてくれた。若く溌溂としたホストの美男美女カップル(夫婦)が精力的に連れ出してくれたある週末のハイキングを一生忘れることはない。目的地は標高2,000mに近い峻嶽だった。「週末のリラックスのため,ハイキングをする」とは聞いていたが,山の麓に着くまで,この山を登ることが「ハイキング」であるとは思ってもみなかった。日本において「ハイキング」とは自然に触れ,楽しみながら歩く・・・・・・・・ことを言う。……Read more



「筆者」に起きた事件とは!? 将又,「故ダイアナ妃に瓜二つのB」に起きた事件とは!? 謎の展開を遂げる第1章の続きはこちらからどうぞお楽しみください。





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2019年09月13日

提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。

教育活動には種々の態様があります。また,一つひとつの教育活動には,それぞれの教育的意義及び目的/目標とされる効果等があります。しかし,遺憾ながら,それらの意義や教育効果の目標化などは,日々の教育実践の中で忘れられがちです。

そこで,具体的な教育場面を取り上げ,種々の教育活動の根底にある教育的意義や目標化されるべき教育効果などを再確認するため(下位目的),本カテゴリーに当塾の塾長による教育実践に根付いたショートブログを書き下ろすことにいたしました。その上位目的は,次のとおりです。

〈乳幼児・児童・生徒の未来に羽搏く成長〉に資する教育実践の創造

日々の真摯な教育実践の参考としていただければ幸甚です。また,教員採用候補者選考の「場面指導」にもお役立てください。








【今回のまとめ】
○ 提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。
○ 「担任等(個)の指導―学校・学年団(全体・組織)の指導」を常に意識せよ。









1 忘れ物対策だけに走るな




乳幼児・児童・生徒の宿題を含めた提出物に付きものが忘れ物。ある意味,行為としての「提出」は「乳幼児・児童・生徒―学校(担任等)」間の契約(約束)履行だから,それを守らせることは社会性の育成の面において重要なことである。また,内容によって,「提出物」は「乳幼児・児童・生徒―学校(担任等)」間のコミュニケーションを促進する媒体ともなる。だから,学校現場において「忘れ物対策」が講じられる。




「対策」を挙例すれば,「学校から保護者への文書」,「連絡帳(の指導)」,「机,ロッカー,ランドセル(カバン)の中の(乳幼児・児童・生徒自身による)点検(の指導)」及び「提出期限1日前提出の励行(指導)」などがある。




しかし,学校というところは怖いところで,「対策(指導)」は直ぐ様形骸化する傾向にある。
「どの学年(担任)も行っているから,私も連絡帳を活用する。」
「下校時,隣のクラスの担任も机の中を点検させているから,私もさせる。」
仕舞にはそうすることが空気のような存在になり,何も考えず指導する教員も出てくる。「対策」は魂の抜けた「タイサク」となる。




このような状態となる原因には,「対策」を「対策」としか考えない思考性がある。つまり,「対策」の持つ指導上の意義,目的及び教育効果の評価などが指導者から欠落しているのである。









青い空を背景に青い河に鋭く屹立する氷の山
氷河(提供 photoAC)








2 提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。




「忘れ物が多い(乳幼児・児童・生徒だ)から,「連絡帳」で家庭と連携する。」
「忘れ物が多い(乳幼児・児童・生徒だ)から, 机,ロッカー及びランドセル(カバン)の中を点検させる。」
「忘れ物が多い(乳幼児・児童・生徒だ)から, 提出期限1日前に提出させる。」


こうした指導(?)の思考性は「対策」のための「対策」にある。「連絡帳」や「点検」等そのものが「いけない」のではない。思考性に問題がある。





「なぜ忘れ物が多いのか?」




まずは,このように考えることが大切である。ひょっとすると,指導者(つまり,自分自身)の指導そのものに問題があるのかもしれない。乳幼児・児童・生徒に忘れ物という現象が表象化される必然的な要因があるのかもしれない。




例えば,宿題の提出が遅れたり,なかったりする(乳幼児・)児童・生徒の場合,基本的な家庭学習の習慣がないのかもしれない。それも家庭環境に要因があるのかもしれない(だから,家庭訪問は重要だ)。その家庭環境の要因も一律ではない。抑々,学力が定着しておらず,宿題を行いたくても,わからないからできず,提出できないのかもしれない。




さらに,筆者自らの経験から述べれば,神経発達症(発達障害)を有する生徒の中に忘れ物が多かった生徒も複数いた。この場合(も),当該生徒,保護者及び関係諸機関等の連携・協力を得ながら,当該生徒一人ひとりの特性を担任として,学年団として,教職員集団(学校全体)として的確に捉え,丁寧に粘り強く指導する必要があった。当然のこと,一人ひとりの生徒に行った指導方法は異なった。―誤解があってはならないので。個に応じた指導は神経発達症を有する生徒だけに行ったのではない。それも忘れ物の指導だけではない。特別支援教育は全ての乳幼児・児童・生徒のための教育である。




要するに,「忘れ物が多い」という現象は,氷山に例えるならば,―「氷山」はよく例えに用いられるので恐縮だが,わかりやすいので,―水面上の氷の部分(氷山の一角)に過ぎないのである。水面下の見えない氷は水面上の氷より容積が遥かに大きく,ここに一人ひとりの乳幼児・児童・生徒が有する複雑な問題が内在しているのである((「問題」だけではなく,「個性を伸ばす可能性」等も内在しています。))したがって,これらの問題を解決する/させることが肝要であり,水面上の氷山(「忘れ物が多い」という現象)だけを追い掛け,いくら「対策」を講じても,抜本的な解決には至らないのである。また「忘れ物」は繰り返されるのだ。




提出物の提出状況から表層の「対策」を講じるだけでは,却って乳幼児・児童・生徒を傷付けることだってある。当該の乳幼児・児童・生徒本人に責任がない場合だってあるのだ。




氷山の水面下部を見よ。〈ホンモノの指導〉はそこから始まる。それは飽くまでも「対策」ではない。









「TEAM WORK」の文字に向けて放射状に配置された6本の色鉛筆
チームワーク(提供 photoAC)








3 「担任等(個)―学校(組織・全体)」の恒常的な意識化




指導を行うに際して,「「担任等(個)―学校(組織・全体)」(学校(学年)の指導方針・指導方法等を理解した担任等の指導)の恒常的な意識化」が大切である。それは提出物の指導だけではなく,どの指導についても言及できることである。




学校での指導は担任等,個の裁量で行えるものもあるが,それは学校(組織・全体)の指導に含有される指導(学校の指導⊃担任等の指導)として意識されるべきものである。




例えば,「我がクラスは忘れ物が多いから,「忘れ物グラフ」((忘れ物をした数だけ,シールを貼る等の(棒)グラフなど。個人名が記載されている。))なるものを教室に掲示しよう。」とある担任が周囲の教員に相談することなく単独で指導(?)を始めたとする。それは,まずは「そんなグラフを掲示するなんて,何を考えているのだ!!」との大喝ものだ。先述したとおり,そうした指導(?)は氷山の一角型対策であって,水面下の氷山を見ていないのである。乳幼児・児童・生徒をいたく傷付ける悪行の可能性が非常に高い。




このような飛んでもない例はさて置いて,担任等(個)による指導の工夫は大切なのだが,常に学校全体,あるいは,学校の指導方針・指導方法等に基づいた学年(組織)の指導方針・指導方法等を理解し意識しておかないと,例えば,「あの先生は提出物の指導に厳しいのに,うちの先生は甘い!」などのお小言を頂戴するようになってしまう。指導間格差だ。筆者から言わせていただくと,「個ー全体」のバランスを欠いた/学校の指導方針・指導方法等を理解していなかった(無視した)指導を行った担任等は,別段,お小言を頂いても致し方ない訳だが,―それも経験((「体験」しただけではダメです。その「体験」を言語化してアウトプットし「経験」としなければ,自分のものになりません。特に「言語化」が重要です。これを「体験の経験化」と言います。))です。―乳幼児・児童・生徒に担任等だけではなく,学年団,延いては学校に対して不信感を抱かせてしまう虞があるので,それが問題なでのある。乳幼児・児童・生徒と学校(教職員集団,個々の教職員)との〈つながり〉が切れてしまうと,〈健全な教育〉は成立しないのだ。









青空を背景に運動会のリレーで使用するバトンを左手で高々と掲げる黄色帽子を被った小学生
運動会(提供 photoAC)








4 まとめ




今回の「提出物(/忘れ物)」の指導に関する考え方のまとめは,冒頭(緑色の囲みの中)に記述したとおりである。確認の意味を込めて,次に再掲する。






○ 提出物の提出状況から氷山の水面下部を見よ。 

○ 「担任等(個)の指導―学校・学年団(全体・組織)の指導」を常に意識せよ。






一つひとつの教育活動には必ず意義があり,目的・目標があり,期待される教育的効果がある。活動の前に,指導者がそれらを振り返っておかなければならない。その上で,事前(活動)・事中(=主たる活動)の指導において「学習者(乳幼児・児童・生徒)―指導者」間で目的・目標をしっかりと共有し,事後(活動)に目的・目標に対しての評価を行う必要があるのである。




その際,表象(=水面上の氷河)だけを見ないことだ。確と水面下の氷山を見つめる(=(乳幼児)児童生徒理解する)ことが重要なのだ。そのためにも,「全体(全教職員等)」の視点が必要となってくる。「個」の視点だけでは,ものの見方や考え方にバイアスが掛かっているのだ。だからこそ,教職員には特に〈協働性・組織性〉が常に希求されるのである。




乳幼児・児童・生徒の明るい未来が掛かっている。









小学校低学年の児童が書いたと思われる連絡帳の中の時間割
連絡帳(提供 photoAC)








付記~連絡帳の指導~




特に,小学校の低学年など「提出物」に関する指導の一環として「連絡帳」を活用する学校があります。「家庭―学校(1対1)」のパーソナルな連携の意味合いもあります。そうした利点を持つことから「連絡帳」の活用頻度は高いのでしょう。




指導全般について言えることですが,例えば「連絡帳」の指導をいつまでどのように行うのか,学年団・学校としての計画を持っておくことが重要です。指導内容や指導方法だけではなく, 個々の指導における期限を考えることは大切なことなのです定まった期間の中で,指導し切る・・・・・ことは教員の指導への集中力を高め,その効果を期待できますし,乳幼児・児童・生徒にとっても時間的な目標を持てることから,指導期間後の成果から生起する達成感を味わいやすくなります。とにかく特定の指導のやりっ放しは止めましょう。勿論,学習評価を含めた指導全般の評価も忘れずに。




その点を鑑みながら,「連絡帳」の指導に少し特化して考えてみます。




「連絡帳」は主に「保護者ー当該乳幼児・児童・生徒―担任等(学校)」との三者関係で成立しており,保護者が学校からの伝達情報の受け手となって,当該乳幼児・児童・生徒に対し,家庭でその情報に関する指導を行うことが多々あるようです。つまり,保護者の指導場面が多いということは,―悪いことではありませんが,殊に提出物の指導の場合,保護者の過剰な指導が継続すると,―当該乳幼児・児童・生徒の保護者への依存度が高まることがあるのです。例えば,「提出物チェック」を毎回保護者なしでは行えないなど。これでは当該乳幼児・児童・生徒の自主性は育ちません。そこで,必要となるのが,指導内容,指導方法は然ることながら,指導期間の見立てです。例えば,提出物の提出が定着しつつあるようであれば,毎日の提出を止め,週に3回にするとか,家庭・学校がお互いに必要のある場合のみにするとか。




また,徐々に数値目標を減少させる(スケーリング)方法も考えられます。目の前の小さなゴール(目標/例:毎日提出→週に3回→週に1回→必要がある場合のみ)を順次少しずつクリアして,最終的には大きなゴール(目標/「連絡帳」を活用しなくても,忘れ物がなくなる。)を達成する。こうした解決志向(Solution Focused Approach)の考え方は種々の指導に有効です




このような指導の見通しを持つためには,事前に過去の各学年等の提出状況を分析しておく必要があります。そのデータに当該年度の乳幼児・児童・生徒の提出状況を加味するのです。




特に,解決志向型の計画的・継続的指導は「連絡帳」の指導においても,一つの選択肢として必要だと考えます。








© 2019 「鍛地頭-tanjito-」





posted by tanjito at 19:30| 広島 ☀| Comment(0) | 「鍛地頭-tanjito-」の教育実践編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする