2019年05月12日

新学習指導要領の〈語り手〉を知る―カープファンの綴る「ジャイアンツ丸物語」より―【基礎編】





【教材1】





ジャイアンツは,開幕後,好スタートを切りましたね。今シーズンの優勝は夢ではありませんよ。平成最後のゲーム,4月30日現在で,16勝10敗(貯金6),勝率.615,得点128/失点98,本塁打35,打率.264,防御率3.54,盗塁10の成績で,2位のヤクルトに0.5ゲーム差を付け,堂々の1位です。広島東洋カープから移籍した丸佳浩選手もホームラン6本と,これからますます見られる「丸ポーズ」が楽しみです!!


それに引き比べ,広島東洋カープはどうしたことか!? 開幕直後からズッコケましたよ。オープン戦が良すぎましたからなあ。3連覇中の覇者とは思えぬ惨めな有様(ありよう)。8連勝で貯金8を返したかと思えば,3連敗。12勝15敗(借金3),勝率.444,得点91/失点120,本塁打24,打率.225,防御率3.68,盗塁11の成績で4位の阪神に1ゲーム差の5位と低迷中。平成での5割復帰は夢に終わりました。 貧打に,四球を連発する投手陣,大量エラーに予想のできない采配振りとくれば,そりゃあ,勝てませんよね。まだ順位をどうのこうのと述べる時期ではありませんが,そうであったとしても,今シーズンのカープは既に終わっているでしょう。まあ,3年間,勝利の美酒に酔ったのだから,今シーズンは御生憎様(おあいにくさま)ということで。


それにしても,「鍛地頭-tanjito-」の塾長は諦めの悪い人ですね。この期に及んで,「何のこれしき!!」なんぞ思っていますよ(笑)。ちょっと前のブログには,「令和」の「梅花」つながりで,元広島東洋カープのエース,黒田博樹氏の座右の銘「雪に耐えて梅花麗し」 を採り上げ,こんな屁理屈すら言っていました。


「現在,カープは負けが込んでいます。文字どおり,冷た~い「雪」のステージの到来です。それまでの3年間とは全く異なった様相です。しかし,本「令和考」のごとく,「(3年間の)常勝」のステージ(テーゼ)と「連敗(「雪」)」のステージ(アンチテーゼ)は選手・球団や日本,否,世界中のカープファンの〈共創造(co-creation)〉によって,必ずやこれまでに見たこともない〈常勝美〉を備えた〈新たなステージ〉を迎えるのです。球団の経営も高次に止揚されることでしょう。将又(はたまた),毎試合,〈芸術的な美を奏で,勝ち続けるカープ野球〉が展開されることでしょう。1試合の中での逆転のカープは,シーズンを通しての逆転のカープとなるのです。」(「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.14))


ドイツ観念論の大成者ヘーゲルによる弁証法を援用して,広島東洋カープの未来を展望しているのですから,カープファンには「恐ろしい人」もいるものです(笑)。


何はともあれ,「寒梅」の「雪」が解けるように,ジャイアンツに「春」が訪れるのです。



「丸物語2―ジャイアンツファンへの賛辞―」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.30)
※ この引用文は,「創り手」である塾長が本ブログのために「教材」として創作したものです。(「教材」らしい「教材」になっているかどうかは別として…(汗))













1 プロローグ




カープ命!!
カープが大好きな,生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」の塾長 小桝雅典 です。




「いや~,「教材1」の「語り手」は言ってくれるじゃ~あ~りませんか!」




「カープ」や「「鍛地頭-tanjito-」の塾長」をこき下ろしていますよ!




「えっ? カープファンの皆様,なんですって? 私が創った「教材1」なのだから,「私」が「カープ」をこき下ろしているんだろう,けしからん! ですって?」
「いえいえ,何度も繰り返しますが,〈私〉は大のカープファンですからね。「廣島魂」は持っているわけですよ。こき下ろすことはないわけです。それに,〈私〉が「「鍛地頭-tanjito-」の塾長」をこき下ろすなんてあり得ませんよ。人様をこき下ろすなんてことは致しません!!」




「…………………………」




何だか話がややこしくなって参りましたから,この辺りで本筋に立ち返りましょう。




今回のブログは前回投稿した「待って!! その国語の授業!!-〈語り手〉とは何か?-【基礎編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.18,以降「前掲ブログa」と表記)の続編となります。(「新しい時代を生きるための《読み》について考える―〈語り手〉とは?【発展編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.27,以降「前掲ブログb」と表記)と併せてお読みいただければ,理解が深まると思います。)




この一連のブログ(「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論)を投稿する目的は,次のとおりです。




普遍主義・自我中心主義が横行するポストモダンの終焉期から一元論的トランスモダンの時代へシフトする現在にあって,(絵画,写真,演劇等の芸術作品群と共に,特に)リニア(文章で表現されたところ)の世界を〈新しい読み(方)〉(=実際は,既に新しくない〈読み(方)〉)で再構築することにより,(主に読者)自らのものの見方や考え方を〈相対化〉し,「ありのままの《他者(自己)》」に近接することで,次代を《生きる》自己の《在り方・生き方》を模索・希求する契機にしていただく。




そこで,今回は上述の「目的」に達するための基本的な段階として,次の「目標」を掲げたいと思います。




「語り手」とはいかなる人物か,その特性を知る。




今回も長編となりますが,お付き合いのほど,何卒よろしくお願い申し上げます。








傘をさして歩く女性,犬並びに街灯及び小道のミニチュアで構成される本の世界と読者
本の中の世界(提供 photoAC)







2 「語り手」の特性―人物であること―




さて,早速ですが,前回の前掲ブログaで解説した〈語り手〉概念を想起していただきたいのです。(ただし,ここでは,絵画,写真及び演劇等を除く)リニア(文字列による線条性)の世界に限定してお話しますので,ご諒解ください。)




リニアの世界には,「創り手」(今後,この表記を用いて表現します。)とは異なる「語り手」が存在していました。








要するに,ここでのポイントは,「(文学作品だけに限らず,)線条性の文字列の世界には,その文章のジャンルを問わず,「作者」(筆者注:本ブログでは「創り手」)と明確に区別される「語り手」が存在し,その「語り手」が作品世界を語っている」ということなのです。


前掲ブログa







そこで,あの「架空のスポーツルポルタージュ」(筆者注:今後,「丸物語1」と表記)を想起してください。本ブログでは「教材2」として提示します。







【教材2】





 広島東洋カープのセリーグ3連覇を牽引してきた丸佳浩選手がFAを宣言!!
 この度,新天地となる読売ジャイアンツ(以下,「ジャイアンツ」と表記)に入団しました。
 やった~!! 万歳~!! これで今シーズンのジャイアンツの優勝は間違いありません。
 噂によると,原監督は,丸選手がジャイアンツに入団することを一つの条件に,3年間,努力と忍耐を続けた高橋監督の後を引き継ぐことにしたとか。主力の阿部慎之助・坂本勇人両選手などは,丸選手のFA宣言に対して「勇気ある決断。尊重します。共に優勝を目指しましょう。」と歓迎しています。
 ジャイアンツのユニフォームがばっちり似合う丸選手。先日の日ハムとのオープン戦では,右中間への大飛球をジャンプ一番!! バランスを崩しながらも好捕。白球が収まったグラブを高々と差し上げる雄姿を披露しました。頼れる男が,今度はジャイアンツを優勝に導きます。
 がんばれ!! 丸佳浩!! 頑張れ!! ジャイアンツ!!


「丸物語1―ジャイアンツ,優勝に向かって突き進め!!―」(前掲ブログa







上掲の「教材2」には,性別はよく分かりませんが,ジャイアンツファンと思われる「語り手」が存在しています。(ひょっとしたら,ジャイアンツファンと騙(かた)っている(=騙(だま)している)だけかもしれません。ただ,「教材2」だけの情報から性別を判断することは困難です。特に,最近,「カープ女子」に始まる女性の熱狂的なプロ野球ファンが多くなっていますからね。)この「語り手」は飽くまでも「創り手」である(実体を伴う)「私」とは異なる(架空の)存在(人物)です。なぜならば,執拗に繰り返しますが,「私」は大のカープファンだからです。ジャイアンツファンではないのです。(執拗すぎるので,もう止めます(笑)。)




「語り手」なる存在を思い出していただけたでしょうか?




では,この「語り手」なる存在について,もうちょっとだけ,その特性に関して考察してみることにします。「教材2」に基づきます。




まずは,繰り返しますが,「語り手」は通常「(架空の)人物」であることを確認しておきたいと思います。作品によりけりで,性別が分かる場合もあれば,そうでない場合もあります。「教材2」では不明です。性別を見極める方法はいくつかありますが,まずはその語り口(語りの口調)ですかね…。ここでは,難しいことは述べません。




次に,これも繰り返しになりますが,「教材2」の「語り手」はどうやらジャイアンツファンのようです。ただし,作品によれば,例えば,ジャイアンツファンのように見せかけておいて,実はカープファンだったということもあるのです。作品中に「語り手」がいるということは,その作品中に仮想の「聞き手」もいると想定されますが,(実体を伴う,現実に当該の作品を読んでいる)「読者」も「聞き手」の一人と言えば,そう言えるわけですね。そこで,本当はカープファンである「語り手」がそうした「聞き手」にジャイアンツファンのように見せかけて「語る」場合,特に,そうした言語行為を「騙(かた)り」と表現することにします。「騙」の字は「騙(だま)す」とも読めるわけですから,「ダマシノカタリ」というところでしょうか。「聞き手(読者)」として引っ掛かりたくない罠ですし,また引っ掛かるから文学作品としての醍醐味があるのでしょう。少しレベルの高い作品に見受けられる傾向です。ただ「教材2」では「騙り」であるか否かを判別することは困難です。それを判別するには,あまりにも情報が少ないですから。したがって,現状,「教材2」の「語り手」は「ジャイアンツファン」ということにしておきます。因みに,ジャイアンツに新加入の「丸佳浩選手」に強度の好感と期待を寄せているようです。








吹き出しの中に数多くの「嘘」の文字。虚言を並べ,恰も本当のように両上でを広げて捲し立てる様子の木製の人形
嘘つき(提供 photoAC)







3 「語り手」の特性―変幻自在の存在であること?―




ここで,次の「教材3」をお読みください。「教材3」は「教材2」をベースにして創作してあります。




注:本ブログに掲載した「教材」は全て筆者による創作です。事実とは全く無関係ですから,改めてお断りしておきます。







【教材3】





 広島東洋カープのセリーグ3連覇を牽引してきた丸佳浩選手がFAを宣言!!
この度,新天地となる読売ジャイアンツ(以下,「ジャイアンツ」と表記)に入団しました。
やった~!! 万歳~!! これで今シーズンのジャイアンツの優勝は間違いありません。
 原監督からは,「「これで今シーズンは盤石の構えで臨むことができる。圧勝だ。」と思った。」と窺いました。
 一方,主力の阿部慎之助選手は「丸の勇気あるFA宣言に敬服する。俺がジャイアンツの全てを教えてやる。」と心で固く決意しています。
 また,坂本勇人選手は「共に優勝を目指したい。早く(丸選手が)チームメイトに溶け込んでくれたら良いなあ。」と口には出さず,心の中で歓迎しています。
 ジャイアンツのユニフォームがばっちり似合う丸選手。先日の日ハムとのオープン戦では,右中間への大飛球をジャンプ一番!! バランスを崩しながらも好捕。白球が収まったグラブを高々と差し上げる雄姿を披露しました。頼れる男が,今度はジャイアンツを優勝に導きます。
 がんばれ!! 丸佳浩!! 頑張れ!! ジャイアンツ!!


「丸物語3-ジャイアンツ,優勝に向かっての真相-」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.30)







お読みいただくとお分かりのように,「教材2」と「教材3」との相違は,下線部①~③にあります。これらの相違が何を物語るのか?




結論から申し上げます。これらの相違は,




「語り手」の「視点」,すなわち「語り手」が存在する空間(位置)




の相違を物語っているのです。




このことは,前掲ブログbで次の引用に記述したことと同一の内容を語っているのです。








それでいながら,物語内容はまるで〈聞き手〉を意識するかのように語られています。ということは,「作者」とは異なる〈ナレーター〉が物語空間に存在していることになるのです。これが〈語り手〉です。〈語り手〉は物語空間において,多少なりとも顕在的であり―そうでない場合もあります―,物知りであり,偏在的・自意識的であり,自由な存在です。引用文中の下線部「涙に暮れて見えざりければ,」は〈語り手〉が登場人物である俊寛に(一瞬)同化したことを示しており,〈語り手〉がまさに自由自在な存在である―作品によっては自由でないものもある―左證となるでしょう。


注:下線は本ブログのために筆者が施しました。







まず,「教材3」の「語り手」は「教材2」の「語り手」とは異なる(架空の)人物のようです。と申しますのも,「教材2」には「噂によると」とする言表があることから,「教材2」の「語り手」は,直接,「原監督」から話を聞いたわけではないのです。飽くまでも「噂」の域を出ているものではありません。ところが,「教材3」では「原監督からは~と思った。」と窺いました。」とする言表から,「原監督」の言葉(思い)を直接聞き取ったことになっています(下線部①)。また,「主力の阿部慎之助・坂本勇人両選手などは,丸選手のFA宣言に対して「勇気ある決断。尊重します。共に優勝を目指しましょう。」と歓迎しています。」と両選手の言葉を外的視点で捉えて語る(それも両選手の言葉なのか,どちらかが語ったのか判然としない)「教材2」に対して,「教材3」では,「阿部慎之助選手は~ と心で固く決意しています 。」(下線部②)とか,「坂本勇人選手は~と口には出さず,心の中で歓迎しています。」(下線部③)とか,「語り手」は両選手それぞれの「心の中」に入り込んで,その心情を「聞き手」に語っているのです。




つまり,「教材3」の「語り手」は,「原監督」の近くに存在するけれど,その「心の中」にまでは入り込めない人物(存在)なのですが,「阿部」「坂本」両選手の「心の中」には入り込むことのできる能力を持った人物(存在)であることが分かります。一方,「教材2」の「語り手」は「原監督」には近づけず,「阿部」「坂本」両選手には近づけるけれど,彼らの「心の中」にまでは入り込む能力を持たない人物(存在)ということになります。




したがって,「教材2」と「教材3」それぞれの「語り手」は,能力を異にする(架空の)別人物(存在)と考えられるのです。




このように,大雑把に述べれば,一般論として,「語り手」の中には登場人物などに対して外的な視点しか持ち合わせない者もいれば,「心の中」に入り込むなど,内的な視点を持っている者もいる,その両方を持ち合わせている者もいれば,特定の登場人物にだけ内的視点を持ち合わせている者もいるなど,一口に「語り手」と言っても,種々様々であるというわけなのです。




だから,「創り手」としては,どのような〈在り方〉をする「語り手」を作品世界に忍び込ませるかで,その作品世界の構造(雰囲気)を変えることができるわけですし,構想する作品世界に相応しい「語り手」を創造することもできるわけです。ただし,作品次第で「語り手」が「語り手」を超える場合もあるし,「創り手」が制御しきれない,暴走して〈語る〉「語り手」に変化(ヘンゲ)してしまう場合もあるなど,一筋縄ではいかないのが「語り手」の「語り手」たる所以というところなのでしょうか。が,それがまた〈文学〉の面白味なのかもしれません。




そういう意味で,「読み手(読者)」は作品世界の「語り手」を見出し,その「語り手」特有の「視点」を辿りながら,一度は作品世界を解体しておいて,再構築する必要があるのです。








「論理」「整合性」「矛盾」「組み立て」と思考回路を巡らす木製の人形
思考回路(提供 photoAC)







4 エピローグ




余談を。私がカープファンであることは,私の持論「二項対立の構図からの思考的解放」に反するのではないかとお考えの読者もいらっしゃることでしょうね。結局「あんた(私)の頭の中は「カープ対〇〇」になっているだけだ! 二項対立の図式だけに支配されているのだ!」と。




実は,違うんです。別に,屁理屈をこねようとは思っていません。カープファンには間違いないですが,本ブログシリーズのために,敢えて「カープ対〇〇(ジャイアンツですが)」を表現しているのです。プロ野球(敢えて「日本の」とは申しません。) に対する本音はもっと別のところにあります。




ですが,ここではブログのテーマから逸脱してしまうので申し上げません。




さて,再度,「教材1」(丸物語2)の話を持ち出します。




「教材1」の「語り手」は見掛けたところジャイアンツファンのようです。また,「「鍛地頭-tanjito-」の塾長」の「心の中」にまでは入ることができない人物(存在)のようです。




ただし,読者の皆様,この「教材1」の「丸物語2」はどこやらに異臭が漂っていませんか? なぜ「語り手」は黒田博樹氏の座右の銘や「「鍛地頭-tanjito-」の塾長」の「ヘーゲル弁証法」による「輝かしい未来のカープ像」を語ってしまった/語って見せたのでしょうか? ジャイアンツファンのはずですよね。「丸物語2」を構築する言表群だけからでは,何の根拠もないですから,明確な解答は得られないのですが…。万一,「丸物語2」を語る「語り手」と同一人物が「ジャイアンツ」や「カープ」,もしくは他の球団を「語る」作品があったとしたら,それらを片っ端から読んでみる必要があるかもしれません。なぜならば,それらの言表群の中に,もしかすると,「カープ賛辞」を「語る」言説の存在を指摘できるかもしれないからです。仮に,そうした言説が見出せたとしたら,この「教材1」(「丸物語2」)の「語り」は〈騙り〉である可能性があることになります。




わざと「カープ」と「「鍛地頭-tanjito-」の塾長」をこき下ろし,何だかの理由でジャイアンツファンを装いながら,実は腹の底では「カープ」の奮起奮闘と四連覇を祈念していたのかもしれないのです。




ということは,同一の,あるいは別の「語り手」による(例えば,同一のテーマ,モチーフを携えた作品を含む全)作品群を構築する一つ一つの言表を分析すること,すなわち,「語り手」の言語宇宙を旅することがホンモノの〈語り手〉と〈語り〉(≒言説)を見出す文学的一方途なのかもしれませんね。







【「言語宇宙」についての関連】





(前略)これから述べることは,この「序」(筆者注:「令和」の典拠となった「梅花の歌三十二首并せて序」(『萬葉集』巻五))」だけを分析しても抽出されない結果を述べるに過ぎません。例えば,『萬葉集』の全ての「序」と言える言表群の機能や「旅人」「(観梅の)宴」「初春」「令月」「気」「淑く」「風」「和ぐ」「梅」など,「序」に表象されている一つひとつの言表が『萬葉集』の他の箇所で〈語り手〉によってどのように語られているのか,また,『萬葉集』だけではなく,同時代の文学作品においてそれらの言表が〈語り手〉によってどのように語られているのかなどを詳細に読み取り,『萬葉集』の言語宇宙を再構築しない限り,明確な結果を得ることはできないのです。


「「鍛地頭-tanjito-」の令和考―異文化間を超越する〈美〉―【後編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.4.14)







本ブログはこの辺りで結末を迎えるわけですが,





  • 「語り手」が(架空の)人物であることが分かった。

  • 「語り手」にも種々の能力があり,人(=「語り手」)様々であることが分かった。




だから,





  • それが一体何なのだ?

  • 何が一体〈新しい読み〉なのだ?

  • そうしたことを知ることに何の意味があるのだ?




と思っておられる読者もいらっしゃるのではないかと拝察いたします。




本シリーズはこれからも長期化し,どうしても難解な理論(発展編)を経なければ,帰結には至りませんから,ここで,一口に上述の疑問にお答えすることは困難です。ただ,現時点で申し上げられることは,




「「語り手」が(架空ではあるが)「人」であって,それも様々な能力を有する「語り手」が作品世界の中に存在するということは,作品世界の中に生起する事件や出来事など,当該の「語り手」を取り巻く環境に対して,「語り手」独自の「視点」からそれら「事件や出来事」などの「環境」を見つめ,解釈し,「聞き手(読者)」に語ってくるわけで,そこが大切である。」




ということなのです。つまり,




「「語り手」は作品世界の中の「事件や出来事(環境)」に対して,「語り手」独自(全て「独自」という訳ではありませんが,説明を加えるとすると,少々ややこしくなるので,ここでは控えます)の「ものの見方や考え方」で解釈することから,我々「聞き手(読者)」はその「ものの見方や考え方」を我々の「ものの見方や考え方」でどのように捉えるか(納得するのか,一部納得するのか,全く拒否するのかなど)が大切である。」




と言えるのです。さらに,そうした(言語)行為がなぜ「大切」なのかといった点については,今後のテーマとして追々綴って参る所存です。







今後,本シリーズは,やや長い期間,理論を中心とする「発展編」を展開することとなります。その後,「基礎編」と「発展編」を統合した「共通編」を展開する予定です。理由は「教材」として『平家物語』を扱うからです。万一の予定変更も予想されますので,予めご諒解ください。




今回はここまでです。







【追記】




殊,カープに関して能天気な私は,よ~く考えてみると,その根底には,やはり「「広島(県)」が大好き!」という思いがあるようです。カープが勝っても負けても,「広島天国」(歌 南一誠,作詞・作曲 あきたかし)を声高らかに歌っています。カラオケでは,勿論,持ち歌です(笑)。




ある日,この歌を歌っていらっしゃる歌手の南一誠さんと,広島県にある某高級ホテルのステージで,多くのお客さんを前に,二人で一誠さんの持ち歌を歌うことになっていた私。本番1週間ほど前,二人のキーを合わせる段階まで来たところで,私が,急遽,本番の日に遠方への県外出張となり,その夢は〈夢〉と消えてしまったのでした…トホホ…




広島(の夜の歓楽街)をこよなく愛する(笑)名曲「広島天国」をご紹介して,本ブログを擱筆いたします。




動画はこちらからどうぞ。
https://www.uta-net.com/movie/9703/ (「広島天国「南一誠」の歌詞&動画視聴ー歌ネット」(Uta-Net動画+))







© 2019 「鍛地頭-tanjito-」



posted by tanjito at 10:39| 広島 | Comment(0) | 「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月27日

新しい時代を生きるための《読み》について考える―〈語り手〉とは?【発展編】






「鍛地頭-tanjito-」の2019年度業務内容改編の告知模式図
2019年度 組織改組(業務内容改編)







〔原文〕





 僧都せん方なさに,渚(なぎさ)にあがり倒(たふ)れふし,をさなき者の,めのとや母などをしたふやうに,足ずりをして,「是(これ)乗せてゆけ,具(ぐ)してゆけ」と,をめきさけべども,漕ぎ行く舟の習(ならひ)にて,跡は白浪(しらなみ)ばかりなり。いまだ遠からぬ舟なれども,涙に暮れて見えざりければ,僧都たかき所に走りあがり,沖(おき)の方をぞ,まねきける。


『平家物語①〈全二冊〉 新編 日本古典文学全集 45』(市古貞次 校注・訳,小学館,1994年6月,p.194,傍線は小桝が施した。以下,同様である。)…a







〔訳文〕





 僧都はしかたがないので,渚にあがって倒れ伏し,幼児が乳母や母などの跡を慕う時のように,足をばたばたさせて,「これ,乗せて行け。連れて行け」とわめき叫んだが,漕ぎ行く船の常で,あとには白波が残るばかりである。まだ船はそんなに遠くはないのだが,涙に目も曇ってよく見えなかったので,僧都は高い所に走り登って,手をかざして沖の方を見やった。


前掲書a,p.194








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プロローグ




今回のブログは,前回投稿したブログ「待って!! その国語の授業!!-〈語り手〉とは何か?-【基礎編】」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.3.18)の「発展編」の位置付けに当たります。




まずは,前回投稿後の率直な感想から記述します。




前回のブログタイトル「待って!! その国語の授業!!」(傍線は小桝)がそうしたのでしょう,読者の皆様によるPV数がやや減少致しました。恐らく,「国語の授業は私には関係ない。」ということだったのでしょう。お気持ちはよく解ります。




そこで,今回はブログタイトル(メイン)を「新しい時代を生き抜くための《読み》について考える」と致しました。「新しい時代」は「一元論的トランスモダンの時代」を意味しています。※1「生き抜く」には,共同主観性や身体性を中心とする思考のフレームを有する人間存在を基底とした20世紀的な世界観を片方に睨みながら,それらと自他に認識されない「ありのままの《自己(他者)》(≒個人の〈オリジナリティー〉)を希求する《人生の旅路》」との連関性を意識して《生》を営むべく,「一元論的トランスモダンの時代」に個の,又は共同体の〈オリジナリティー〉を生成しながら《生きる》という意味を内包させました。※2そして,「《読み》」には「語りの構造読み」を媒介とする文章等の作品世界の再構築を通して,了解不能の「ありのままの《自己(他者)》」を希求する行為そのものの意味を付与しています。※3




つまり,このプロローグで申し上げたいことは,次のとおりです。




「語りの構造読み」を扱う本ブログシリーズは,単に新学習指導要領(国語)に規定された「語り手」概念の解説を目的とするだけではなく,線条性(リニア)の世界(=文字列で書かれた説明的な文章や文学的な文章等)を通して新たな作品世界を再構築する(=新たな〈読み〉を体得する)とともに,その再構築(体得)の行為は,新たな(一元論的トランスモダンの)時代を《生きる》ことを熟考する行為でもあり,したがって,読者の皆様にそうした契機を提供しご批正を頂くことも目的とするものである。




簡易に述べれば,「国語の授業の関係者だけに向けて発信したブログではなく,これからの時代を生きる全ての方々にご批正を頂こうと発信したブログですよ。」ということなのです。




そういう意味からすれば,何も解説のための作品に『平家物語』を選ぶ必要はないわけです。しかしながら,新学習指導要領(国語)の改訂に伴い,世間では「「実用的な文章」を読解することに傾注し,「文学軽視」である」との批判が沸き起こっています。ましてや古典作品(古文・漢文)の行方は如何に?




そこで,何事も「均衡(バランス)」が重要であると考える私は,解説のための作品に敢えて古文の文学作品(『平家物語』)を選定した次第なのです。(修士論文の題材が『平家物語』だったという大きな前提もありますが…(笑))「説明的な文章」も「文学的な文章」も,どちらも大切な〈文章〉です。どちらも叙述に沿って,正確に,的確に読み取る必要があり,そうした〈読みの力〉を付けなければならないのです。20世紀の「知」の構造(枠組み)は二元論から一元論へと相貌を変え,分析原理から統合原理へと移行している,※ⅰしかも,既に(さらに),時代は次のステージへとシフト(アウフヘーベン)しようとしているにもかかわらず,未だに「「説明的文章」or「文学的な文章」?」などと言っているようでは,まさにアナクロニズム(時代錯誤)の虜と化しているとしか言いようがないのではないでしょうか? そうした固定的ポストモダニズム的思考から,逸早く(自己の)思考の〈解放〉を目指すべきだと考えるのです。だから,古文の文学作品を持ってきたのです。




とは言うものの,本ブログシリーズで古文の文学作品が初お目見えするわけですから,古文そのものの分量は少なくしてあります。




それでは,『平家物語』(覚一本)の中から「巻第三 足摺」の登場人物「俊寛僧都」に視点を照射し,語りの構造と語り手の視点についてご説明申し上げたいと思います。











※1 「一元論的トランスモダンの時代」については,次のブログを参照してください。「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)
※2 「ありのままの《自己(他者)》」については,次のブログを参照してください。「育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へー〔第1回〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.21) 「共同主観性・身体性―《人生の旅路》」との連関性及び「《生きる》」の意味合いについて,ここでは詳述致しません。「大衆の〈知〉を高次に統合し,新たな世界観(文化)を形成しようとする一元論的トランスモダンの時代における個の生き方(在り方)」程度の意味合いで捉えておいてください。
※3 この点については,本ブログシリーズの主題となるため,以後のブログの中で明確にしていきます。








喜界島の城久集落にある八幡神社
喜界島の城久集落にある八幡神社







語りの構造と語り手の視点




「文学的な文章」に限ったことではなく,「説明的な文章」においても,将又(はたまた),古典文学に限ったことではなく,近代文学においても同定できることなのですが,書かれた作品はその殆どが「語りの構造」を帯しています。これは,創作主体としての「作者」と表現主体としての〈語り手〉とを区別して認識するところから始まります。




本ブログの冒頭に掲げた『平家物語』(覚一本,巻第三 足摺,一部引用)をご覧ください。この場面は,登場人物の俊寛(僧都)が平家討滅の密議の咎を受け,流人として配流された鬼界ヶ島※1にただ一人,平清盛によって帰京を赦(ゆる)されず,迎えの舟に置き去りにされる語りで構成してあります。この語りからも明らかなように,「作者」※2と〈語り手〉とは明確に区別されなければなりません。仮に「作者」と〈語り手〉とが同一の人物であるとするならば,この人物は俊寛と共に鬼界ヶ島に存在していなければなりません。俊寛の一挙手一投足を〈外〉の客観的な視点から具(つぶさ)に語っているのですから。俊寛と共にあって,俊寛を観察し,その様子を語る人物。しかし,現実的には流罪の島※3にその人物が存在したとは考えられません。恐らく,実際の「作者」は,この一件の後,俊寛と同じく流人として配流された少将成経・康頼法師や平家方の御使いである基康,又は後に鬼界ヶ島を訪れ,主人の最期を看取った有王などから当時の俊寛の様子を直截(ちょくせつ)聴いたか,若しくはそれら四者が人々に語った俊寛に纏わる話を間接的に聞いたかして,その聞き書きを綴った(語った)と考えられるのです。




それでいながら,物語内容はまるで〈聞き手〉を意識するかのように語られています。ということは,「作者」とは異なる〈ナレーター〉が物語空間に存在していることになるのです。これが〈語り手〉です。〈語り手〉は物語空間において,多少なりとも顕在的であり―そうでない場合もあります―,物知りであり,偏在的・自意識的であり,自由な存在です。引用文中の下線部「涙に暮れて見えざりければ,」は〈語り手〉が登場人物である俊寛に(一瞬)同化したことを示しており,〈語り手〉がまさに自由自在な存在である―作品によっては自由でないもののある―左證となるでしょう。




このように考えてくると,古典文学だけではなく近代文学の多くの場合においても,現代のナラトロジー※4と日本の物語論とはほぼ同定できると言えるのではないでしょうか?※5少なくとも日本の古典文学作品は〈物語〉と呼んで良さそうです。








高峰の尾根に佇む一頭の鹿
山の鹿







それでは,その〈物語〉とは如何なるものなのでしょうか?




〈物語〉は,線条性(リニア)の形態を採る記述による,創作された虚構的現実です。一般に優れた「創り手」は,言葉による線条性(リニア)の世界に多種多様な「現実」のイメージを封じ込めます。そこには,時間軸を媒介とした虚構的現実世界の空間が奥行きを持って存在します。その〈現実〉の世界に主人公がいます。彼/彼女は行動し,言葉を話します。そして,彼/彼女を取り巻く環境があります。―人間関係があります。事件・出来事が起こります。―環境に左右されながら,主人公の言動は彼の心的変化に伴い,以前とは様相を異にします。それに並行して人間関係も異なった様相を示し始めます。自然への働きかけは,彼/彼女の予想し得なかったものに相貌を変ずるのです。※6このように〈物語〉においてこれらの物語内容は線条性(リニア)の世界の時間的経過に即し,〈語り手〉により虚構的現実世界の出来事として語られるのです。そうして,線条性(リニア)の世界が終焉を迎えるとき,〈語り手〉の語りも結末を迎え,虚構的現実世界も同時に幕を下ろすのです。




したがって,「読み手」はその線条性(リニア)の世界から「創り手」によって封じ込められた複雑に錯綜する虚構的現実世界を,言表を手掛かりに再構築※7していかなければならないのです。しかも,〈語り手〉による言説を辿れば,そこには〈語り手〉の欲望※8が窺えてくるのです。




ただし,ここで留意しておかなければならないことがあります。それは,先述した物語内容を語る〈語り手〉の言説における特性です。繰り返しますが,〈語り手〉は「創り手」とは異なる存在であり,物語内容を語る架空の人物です。したがって,〈語り手〉は現実に存在する人物と同様,性格や個性を有し,事象を認識する主体として存在するのです。つまり,〈語り手〉は間主観的拘束性※9により「自らが生きた時代や所属した共同体の精神及び認識(イデオロギー・共同主観)」(=時代及び各種共同体言説)に,固有の生活背景に起因する「個性化された認識」を加味した「語り」(=「自動化された内的物語」※10 以後,〈内的物語〉と表記します。また,所謂時代及び各種共同体の言説と〈内的物語〉の融合体は,〈語り手〉の独自の〈視点〉を形成するので,これを端的に「言説」と表記します。)でもって物語世界を語っているのです。例えば,登場人物はその登場人物を語る〈語り手〉の「言説」※11によって言動を制御され,〈語り手〉特有の〈視点〉でもって,その人物像が形象化されていくのです。




一方,〈語り手〉の「語り」に基づいて,「読み手」は作品世界を再構築しようとします。ところが,再構築を試みるそれぞれの「読み手」は,〈語り手〉同様,彼らが生存する時代や各種共同体の言説を基盤に生存している上に,それぞれの〈内的物語〉を有しています。すなわち,ここにおいて,〈語り手〉の「言説」(=〈語り手〉の〈視点〉)とそれぞれの「読み手」のそれらとの位相により,また国語科授業を想定した場合,それぞれの「読み手」間に生起する「言説」の相違により,「物語内容(虚構的現実世界)に対する認識のズレ/個別化された「読み」」が現象化してくるのです。※12




つまり,このように考えると,同種・類似の事象についても,それを異なった作品間で語る,様々に想定され得る複数の〈語り手〉の〈視点〉や〈語り〉の〈方法〉には位相が生じるはずなのです。無論,同様であることも想定されます。ましてや作品世界に没入する「読み手」の,同事象(同物語内容)に対する「視点」や「語り」の「方法」は,作品世界の〈語り手〉のそれとは異なりを示すはずなのです。(→この現象を,仮に「異化」と呼んでおきます。)勿論,同様である可能性もあるでしょう。(→この現象を,仮に「同化」と呼んでおきます。)このように,「読み手」が〈語り手〉の〈視点〉や〈語り〉の〈方法〉に「同化」したり,「異化」したりできる(→これを,「対象化・相対化」と呼んでおきます。また。意識的にこれらの行為を営む場合,これを特に〈対象化・相対化〉と呼んでおきます。)ならば,「読み手」は作品世界の〈対象化・相対化〉を通して多様な〈視点〉(=ものの見方や考え方≒価値観)を体得していくことになるでしょう。このことは,延いては,〈優れた読み手〉たる一つの条件となるものであると考えることができるのです。しかも,このような〈優れた読み手〉が虚構的現実世界を再構築し,〈語り手〉の〈視点〉や〈語り〉の〈方法〉を〈対象化・相対化〉する過程にこそ,文字列で書かれた作品を味わう一つのおもしろさ(=「〈読み〉の可能性」)が存在していると言えるのです。




したがって,ここにおいて,人の一生を通じて,各人が〈優れた読み手〉となるためには,学校教育における学習者それぞれの「言説」を〈対象化・相対化〉する授業構築が喫緊の課題となってくるわけなのです。








廿日市市を背景にした安芸の宮島の大鳥居と一等の鹿
安芸の宮島







ただ,上述した思考は,まさにポストモダニズムの枠組みから解放されない思考と言って過言ではありません。何度も繰り返すように,時代はポストモダンの時代から(一元論的)トランスモダンの時代へと移行しようとしています。勿論,上述したような〈読みの理論〉をすっ飛ばして,いきなり新時代の《読みの理論》を模索・体現しようとしても,それはいくら何でも無謀というものです。したがって,アナクロニズムに陥りながら,今後,新学習指導要領の名の下に,「語りの構造読み」が学校教育の中で扱われ,事の成否はさて置くとしても,新しい〈読みの理論〉として,その体得が目指されていくことになるのだと思います。




ですが,本来,それでは遅いのです。《読みの理論》は単なる線条性(リニア)の作品世界を再構築するだけのものではないのです。来たるトランスモダンの新時代において,各種共同体や自己の「ありのままの《自己(他者)》」(≒〈オリジナリティー〉)を《読む(=希求する)理論》でもあるわけです。〈読みの理論〉を介して〈相対化〉された共同体や自己は,実体を伴う他者としての共同体や他者と共創造(co-creation)(≒《相対化》から高次の段階への統合化)しながら,各種共同体としての,また,各個人としての「ありのままの《自己(他者)》」に近接していかなければならないのです。そして,その模索は人間が営む種々の領域で既に行われています。ビジネス界も然り,国語教育界も然り。そして,私も然り。




ですから,本ブログで紹介する「語りの構造読み」は,実は,時代遅れの〈読みの理論〉だったということになります。私の考える新たな《読みの理論》※ⅱについては,紙幅がどこかにあれば,披歴させていただきたいと思っています。











※1 薩摩国。鹿ケ谷の陰謀(1177年(治承元年))により,俊寛・平康頼・藤原成経が流罪にされた島。翌1178年(治承2年)に康頼・成経は赦免され京に帰るが,俊寛だけは赦されることなく,独り島に残され,悲嘆のうちに死んだ。
※2 『平家物語』は琵琶法師によって語られた文学である。したがって,同書の場合には,実体を伴った「語り手」と呼ぶ方が良いのかもしれない。
※3 『平家物語』には,当時の「鬼界ヶ島」を語る次の語りがある。引用する。
「彼島は都を出でてはるばると,浪路をしのいで行く所なり。おぼろけにては舟もかよはず。島にも人まれなり。おのづから人はあれども,此土の人にも似ず,色黒うして,牛の如し。身には頻りに毛おひつつ,云ふ詞も聞き知らず。男は烏帽子もせず,女は髪もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物もなければ,只殺生をのみ先とす。しづが山田を返さねば,米穀のるいもなく,薗の桑をとらざれば,絹帛のたぐひもなかりけり。島のなかには,たかき山あり。鎮に火もゆ。硫黄と云ふ物みちみてり。かるがゆゑに硫黄が島とも名付けたり。いかづち常になりあがり,なりくだり,麓には雨しげし。一日片時人の命たえてあるべき様もなし。」(前掲書a,p.154)
※4 「物語の構造や語りの機能を分析する文学理論。ロシアの民俗学者プロップによって創始された。狭義の文学のみならず,神話・絵画・映画・歴史叙述などへの幅広い適用が試みられる。」(コトバンク,「ナラトロジー(英語表記)narratologie」,大辞林 第三版の解説
※5 髙橋 亨(1992.4):「物語学に向けて―構造と意味の主題的な変換―」(『物語の方法 語りの意味論』,糸井通浩・高橋 亨編,世界思想社,p.4)
※6 ここに叙述した物語内容は一つのモデルに過ぎず,これをもって全ての〈物語〉が有する物語内容を語ったわけではない。
※7 〈優れた読み手〉によって再構築される虚構的現実世界はモノトーンの世界ではない。無臭の世界でもない。ましてやサイレントの世界でもない。そこには色彩があり,音があるのである。だからこそ,虚構的〈現実〉なのである。
※8 竹村信治(1996.3):「はなのはなし―説話と表現(1)―」(『国語教育研究 第39号 大槻和夫先生還暦記念特集』,広島大学教育学部光葉会,pp.23-33)に詳しい。
※9 「相互主観性」ともいう。「自我だけでなく他我をも前提にして成り立つ共同化された主観性。フッサールなど現象学派を中心に研究され、知識や科学・文化などは、これを根底に成立する。間主観性。共同主観性。 → 共同存在」(コトバンク,「相互主観性(読み ソウゴシュカンセイ)」,大辞林 第三版の解説) 「共同主観」も同概念を示す言葉である。
※10 難波博孝(1996.8):「自動化された「物語」から逃れるために―国語の授業でなにをすべきか―」(『日本文学』巻45,日本文学協会)に詳しい。
※11 〈語り手〉は時代言説からの制約を受けるばかりの存在ではない。時代言説を〈対象化・相対化〉し得た〈語り手〉は,時に時代言説と自己の〈内的物語〉との葛藤に大きく揺れ動く場合もある。また,果敢に時代言説に抗する場合もある。さらに,〈内的物語〉からの制約を受ける可能性が高い〈語り手〉も,自己の〈内的物語〉を〈対象化・相対化〉し得た場合には,時代言説の場合と同様,新たなる《内的物語》の生起によって感動・逡巡・当惑・葛藤などの体験を経験するのである。
※12 筆者は読みのアナーキズムに陥る無責任な読者論を肯定しているわけではない。すなわち,まず「読み手」は〈語り手〉の〈語り〉が有する「言説」を模索・接近し,そこに回帰していかなければならないのである。読みの過程を考えるならば,〈対象化・相対化〉はその段階において営まれることになる。つまり,「個別化された「読み」」(=「読みの多様性」)は,〈対象化・相対化〉の段階にあって,それぞれの「読み手」の「言説」が個に応じて変容する可能性を示唆している。


《※1~3の参考》 「鬼界ヶ島」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







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エピローグ




さて,次回(発展編)は「〈視点〉獲得の必要性」と「〈対象化・相対化〉の(教育的)意義」について考えてみたいと思います。と,このように告知しておいて,執拗に述べますが,本ブログシリーズは国語教育の推進のためにのみあるものではありません。私は先日「「The パクるな!!」-ブログ類似言説の〈相対化〉-(第5回)」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.2.15)の中で,次のように語っています。





時代状況を鑑(かんが)みるとき,現在はポストモダンが終焉を迎え,ポストモダンを超越(トランス)する時期にあるのではないかと考えるのです。ただ,それは希望的な観測であるのかもしれません。このポストモダンの終焉期に当たり,数多くの小さな価値観は鬩(せめ)ぎ合い,空洞化・形骸化しました。終焉期は人的な新たな価値観の創出のために必要なエネルギーを喪失した頽廃期とも言えます。結局,近未来は新たな価値観を創出するフィールドと凋落(ちょうらく)するフィールドとに,まずは二極分解(ここで,詳細は語りませんが,もう少し細かく見ると四分割)するのではないのかというのが,私の見方です。


注:下線は本ブログの叙述のために小桝が施しました。







下線部に,特に私の本音はあるのですが,それを見事に言い当てた言表が前掲書ⅰ(p.56)にありますので,次に引用します。





近代の個人主義は,単に一人ひとりを大切にしようということにとどまらず,さらに突き詰めて言えば,他者(としての個人)はともかくとして自分(という個人)を最も大切にしようという主張にほからなない。他者よりも自我を,他人よりも自分を,というのが近代個人主義のホンネなのである。


注:傍線は小桝が施しました。







まさに引用のとおりだと思います。「近代個人主義」の大義名分(=言説の権威性)の下,当初はまだ「小さな価値観」と呼べた各個人の「言説」も,許容社会(「独我論的傾向(前掲書ⅰ,p.56))が不幸にも進行する中で「空洞化・形骸化」し,「我執のミイラ」と化してしまいました。非常に厳しい言い方ですが,「〈鄙陋(ひろう)〉の残滓(ざんし)の大衆化」と言っても良いのかもしれません。かと言って,一方では,生き残った「小さな価値観」間の矛盾を〈矛盾〉として内包したまま,それらの統合化を図り,高次の文化(ステージ)を共創造しようとしている人たちも現に存在しています。ただ,どちらにせよ,―「 〈鄙陋〉の残滓の大衆化 」から自己(各種共同体)を解放するにせよ,共創造による高次の文化創造に専心するにせよ,―〈視点〉の獲得と〈対象化・相対化〉の営為は不可欠だと断言できるのです。それらの営為は混迷を極めるポストモダンの終焉期に存立する複雑多岐な社会システムを「システム思考」で乗り切る〈方途〉をきっと授けてくれるに相違ないからです。




このように考えてくれば,本ブログシリーズの最終目的が単に国語教育の推進にのみあるだけではなく,一元論的トランスモダンの時代を見据え,高次の文化創造を目途に,20世紀的な「知」の止揚(アウフヘーベン)・統合化を図る〈在り方〉を提示し,人世からのご批正を頂こうとしていたことにあることがお分かりいただけたかと思うのです。







【参考文献】




※ⅰ 長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ―知の構築のために―』(山川出版社):本書は「20世紀的「知」の構造」を学ぶのに適しているだけではなく,巷間の小論文試験対策本とは異なる異色の所謂小論文参考書です。
※ⅱ 田中実・須貝千里・難波博孝(2018.10):『21世紀に生きる読者を育てる 第三項理論が拓く文学研究/文学教育 高等学校』(明治図書):本書は「文学研究,とりわけ近代文学研究と国語科教育の実践/研究の停滞・混迷を超え,ポスト・ポストモダンの時代を拓いていくため」(「まえがき」より)に示唆を与えてくれる点で有益であると言えます。







【参考論文等】










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posted by tanjito at 14:05| 広島 | Comment(0) | 「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月18日

待って!! その国語の授業!!-〈語り手〉とは何か?-【基礎編】


【架空の国語科教科書教材】




タイトル:ジャイアンツ,優勝に向かって突き進め!!




 広島東洋カープのセリーグ3連覇を牽引してきた丸佳浩選手がFAを宣言!!
 この度,新天地となる読売ジャイアンツ(以下,「ジャイアンツ」と表記)に入団しました。
 やった~!! 万歳~!! これで今シーズンのジャイアンツの優勝は間違いありません。
 噂によると,原監督は,丸選手がジャイアンツに入団することを一つの条件に,3年間,努力と忍耐を続けた高橋監督の後を引き継ぐことにしたとか。主力の阿部慎之助・坂本勇人両選手などは,丸選手のFA宣言に対して「勇気ある決断。尊重します。共に優勝を目指しましょう。」と歓迎しています。
 ジャイアンツのユニフォームがばっちり似合う丸選手。先日の日ハムとのオープン戦では,右中間への大飛球をジャンプ一番!! バランスを崩しながらも好捕。白球が収まったグラブを高々と差し上げる雄姿を披露しました。頼れる男が,今度はジャイアンツを優勝に導きます。
  がんばれ!! 丸佳浩!!  頑張れ!! ジャイアンツ!!




問 傍線部①,②の作者の気持ちを説明しなさい。




筆者注:上記の文章は「架空のスポーツルポルタージュ(のつもり)」です。
文章中の話材については,筆者が創造したものであり,完全なフィクションですので,お間違えのないようにお願い申し上げます。








マツダスタジアムでカープを応援するファンが上げた真っ赤なジェット風船
広島東洋カープを応援する真っ赤なジェット風船







0 プロローグ




生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」の塾長,小桝雅典です。




今回のブログは,「塾長の修士論文の内容が新学習指導要領及び解説の国語編に!!」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.28)を受けての第1弾となります。




ブログの目的は,今次改訂となった主に高等学校新学習指導要領の国語に導入された「語り手」の概念を解説することにあります。ただし,この解説は学校教育にのみかかわるものではなく,新たな〈読み〉の世界を再構築する意味において,読書行為を行われる全ての皆様にお役立ていただけるものでもあると考えております。しばらくお付き合いのほど,よろしくお願いいたします。







1 架空の授業




そこで,早速ですが,解説に移ります。




まず,様々な仮定条件を列記します。





  • 本ブログの冒頭に誠に稚拙なスポーツルポルタージュ(のつもり)を用意いたしました(恥ずかしい~)。 このルポルタージュの「作者」は私(小桝)です。

  • 私は売れないスポーツライターです。稼ぎが殆どなく,苦しい経済状態です。このような私に,ある日,「丸佳浩選手とジャイアンツを称賛し,今シーズンの優勝を期待する記事を書いてくれないか。」との依頼がありました。依頼主は大手の出版社さんでした。

  • そして,このルポルタージュが小学校高学年の検定教科書の教材に採録されました。(絶対にあり得ないことですが…(汗・笑) )




さて,この教科書教材が,とある小学校高学年の国語の授業で扱われていたとします。活発な学級のようです。大勢の児童が担任の先生の発問に,「はい。」と大きな声で,挙手をして,発言の機会(チャンス)を待っています。




そのときの先生の発問は,次のようなものでした。




「このルポルタージュの「作者」はどんな気持ちで「がんばれ!! 丸佳浩!!」(傍線部①)と書いたのでしょう?」




「頑張れ!! ジャイアンツ!!」(傍線部②)から,「作者」のどのような気持ちが読み取れますか?」




筆者注:児童生徒に問いかける場合,確認の質問と発問にはレベル差を付けます。しかも,発問にも補助的な発問とメインの発問とがあります。当然,レベル差があります。通常,メインの発問は一つの内容を問います。ここでは,解説の便宜上,二つのメインの発問を行っています。




児童たちは純真な心で明るく,元気に答えました。




〔傍線部①について〕





  • 「作者」は丸佳浩選手の大フアンです。

  • 「作者」は丸佳浩選手に活躍してもらいたいと思っています。

  • 「作者」は丸佳浩選手に頑張ってもらって,ジャイアンツに優勝して欲しいと思っています。

  • 「作者」は,丸佳浩選手が阿部選手や坂本選手など,他の選手たちと仲良くなって欲しいと思っています。

  • 「作者」は丸佳浩選手を頼みにしています。

  • 「作者」は丸佳浩選手を格好いいと思っています。




など




〔傍線部②について〕





  • 「作者」はジャイアンツのことが大好きです。

  • 「作者」は,今シーズン,ジャイアンツに優勝して欲しいと思っています。

  • 「作者」は,今シーズンこそ,広島カープを打ち負かして,ジャイアンツが優勝できると思っています。




など




これらの言葉を聴いた先生は,次のように児童の発言を評価しました。




「そうですね!! みなさん,「作者」の気持ちをしっかりと読み取りましたね!!」








白い雲を見下ろし青い空に浮かぶ4つの白い「?」







2 待って!! その国語の授業!!




この国語の授業って,何だかおかしくないですか?




「そうですね!! みなさん,「作者」の気持ちをしっかりと読み取りましたね!!」




「いいえ,しっかりと読み取っていません。」







「作者」は売れないスポーツライターの私(小桝)です。
「えっ!? 私ですか?」




「私は大のカープフアンです!!」




つまり,「作者」はアンチジャイアンツの熱狂的なカープフアンなのです。(ジャイアンツフアンの皆様,誠に申し訳ございません。)食べる物にも事欠く始末で,成長期の娘もいる。考えに考えた挙げ句,金銭のために止む無く,とても残念で辛いけれど,日本全国の数多くのカープフアンを裏切り,溢れ出す涙を必死に堪(こら)え,「(鈴木)誠也,ごめん,緒方監督,申し訳ございません。」と咽(むせ)びながら,仕舞には思い余って,虎の咆哮(ほうこう)張りの雄たけびを張り上げ,断腸の思いで,このルポルタージュを綴った「作者」は,紛れもない〈カープ命〉の私(小桝)なのです。








「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典
塾長 小桝雅典
セリーグ4連覇!!
頑張れ!! 広島東洋カープ!!
(副塾長:この写真を使い回し過ぎです!!)








カープオープン戦を応援後の塾長(対 オリックス・バッファローズ 2019年3月17日 於 マツダスタジアム)
(塾長:ほんなら,これ!!
この日,寒かったわ~,両軍とも打線も寒かったし(#^ω^))
広島カープオープン戦
2019.3.17 於 マツダスタジアム
対オリックス・バッファローズ
カープ命!!







〔傍線部①について〕




確かに,「作者」である私(小桝)は,丸佳浩選手を良い選手だと思っています。打席後,好打/凡打にかかわらず,ベンチで真摯(しんし)にメモを取る姿勢などは,分析的・知性的で好印象を受けます。それでいて/だからこそ,優れた身体能力も相俟って,パワフルで,かつ,ワンプレーが緻密で高技術の体得者ときているので,かなり痺れますね。ですから,他球団に所属しても,日本球界を背負うプレーヤーとして,益々活躍して欲しい選手の一人だと思います。




ですが,そうかと言って,正直なところ,丸佳浩選手にジャイアンツを牽引して欲しくないですね。まあ,優勝は無理でしょうけど(ジャイアンツフアンの皆様,誠に申し訳ございません。優勝は,今シーズンもカープです),丸佳浩選手の活躍で優勝してもらっては困る。(心の狭い私……。)抑々(そもそも),選手の育成(=教育)ができないからと言って,金で選手を獲得するような球団が優勝しては,日本のこどもたちの〈教育〉に宜しくない。「プロ野球の世界なのだから,金で解決するのは当たり前だ!! そういうことをこどもに教えることも大切だ!!」という言説があるとしたならば,それは,正に「プロ野球言説」の権威性に完全に回収されてしまった姿と言えるでしょう。私が〈相対化〉いたします!! 




あっ,つい,カープのことになると,見境がなくなってしまう!! 申し訳ございません。話を元に戻します。




「このルポルタージュの「作者」はどんな気持ちで「がんばれ!! 丸佳浩!!」(傍線部①)と書いたのでしょう?」




「作者」である私(小桝)の気持ちは,上述したとおりです。丸佳浩選手のフアンではあるし,活躍していただきたいとも思っているし,ジャイアンツの他の選手たちとも仲良くしていただきたいし,総じて格好いいとも思っています。ですが,丸佳浩選手の活躍で,ジャイアンツに優勝して欲しいとは,これっぽっちも思っていないのです。







〔傍線部②について〕




「頑張れ!! ジャイアンツ!!」(傍線部②)から,「作者」のどのような気持ちが読み取れますか?」




「作者」である私(小桝)がジャイアンツを好きなわけがない。優勝なんぞして欲しくもない。ジャイアンツがカープを打ち負かすだって!? 今シーズン,ジャイアンツはカープに1勝もできないんじゃないのう~。これが「作者」である私(小桝)の気持ちです。







〔傍線部①・②より〕




だから,申し上げているのです。
「待って!! その国語の授業(当該の発問)!!」「この国語の授業(当該の発問)はおかしいですよね。」って。




しかし,決して児童が悪いのではないのです。
発問が悪いのです。すなわち,(担任の先生の)教材(作品)に対する〈読み方〉がおかしいのです。








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3 「語り手」の存在




ここまでのお話で,何かお感じになることがございませんか?
何度も申し上げますが,「作者」である私(小桝)はカープフアンです。しかし,それにもかかわらず,上掲の作品世界(「架空の国語科教科書教材」)は,ジャイアンツフアンと思われる(もしかすると,そう見せかけている)誰かによって語られていますね。だから,ストーリーが冒頭の「広島東洋カープのセリーグ3連覇を牽引してきた…」から始まり,「…頑張れ!! ジャイアンツ!!」まで展開する(流れる)わけです。私たちには視認できない誰かが,作品世界の中に入り込んで,丸佳浩選手とジャイアンツを称賛しているのです。




それは恰もテレビや映画等のドラマのようです。ドラマの主人公を演じる俳優/女優さんたちや脇役等の俳優/女優さんたち。それに,エキストラの方々など,これらの方々はドラマの視聴者には〈見える存在〉として設定してあります。線条性の文字列が織り成す物語などで言えば,「登場人物」のことです。ですが,ドラマの中には「主人公の淳が小学生の頃だった。ある日,隣で飼っていた犬がいなくなり,…」など,そのドラマの時代や出来事などを要所要所で語ってくれる〈見えない存在〉の「人」がいます。そうした〈存在〉は何もドラマの世界だけではなく,「日本の風物詩」など登場人物はいないのに「語り」だけで進められていくテレビ番組の中にもいます。それと同じ〈存在〉です。よくスクリーン(テレビ画面)などの右下か左下に字幕スーパーとなって紹介される〈存在〉です。そうです。「ナレーター」とか「語り手」とかと書いてある〈存在〉のことです。




上掲の作品世界(「架空の国語科教科書教材」)にも,こうした〈見えない存在〉の「語り手」(「ナレーター」でも構いませんが,新学習指導要領には「語り手」と表記されています。)がいたのです。この作品世界の場合,「語り手」の性別はよくわかりません。ですが,どうもジャイアンツフアンのように思えます。しかし,もしかすると,「読み手(聴き手)」にはジャイアンツフアンと思わせておいて,本当はカープフアンである可能性もあります。その場合の「かたり」は「騙(かた)り(だます意)」になります。




要するに,ここでのポイントは,「(文学作品だけに限らず,)線条性の文字列の世界には,その文章のジャンルを問わず,「作者」と明確に区別される「語り手」が存在し,その「語り手」が作品世界を語っている」ということなのです。




まずは,基礎的な大前提として,この「語り手」なる〈存在〉を記憶に留めておいていただきたいと思うのです。








2018年日本シリーズ第1戦でカープを応援する前,ヒーローインタビューの水掛けを模したボードの前で万歳をする塾長
今シーズンこそ,日本一!!
(副塾長:この写真も使い回し過ぎです!!)







4 エピローグ




本ブログをお読みくださって,「文字列となった様々なジャンルの文章に「語り手」が存在することは分かった。しかし,それを知って,一体何になるのか?」「「語り手」の概念(「語りの構造読み」)を学校教育に導入する教育的効果は何なのか?」など,種々の疑問が湧出してきた読者がおいでのことと拝察いたします。それらの点につきましては,今回,それぞれのご質問に対して,「とても有益です。」「とても大きな教育的効果がございます。」など,極論すれば,「人間性の涵養に資するものです。」とだけ申し上げておきたいと思います。




本ブログシリーズも長期化の予感が致しております。上述のご質問は,本ブログの究極の目的でもございますから,追々,のんびりとお話させていただければと思います。




なお,今回と同様のテーマで,現在,『平家物語』を教材とした【発展編】を執筆中です。今しばらくお待ちください。




今回は,ここまででございます。







【参考】




「語りの構造を踏まえた読みの授業に関する研究―古文の授業構築を中心に―」(小桝雅典,1998(平成10)年度 広島大学大学院教育学研究科 教科教育科学専攻 国語教育学 修士論文)




【関連】














余話








尾道浪漫珈琲 福屋広島駅前店(地上10階)から臨む広島駅前の光景
尾道浪漫珈琲 福屋広島駅前店(地上10階)から広島駅前を臨む







平成31年2月28日(木),午前10時45分頃。
今日は久し振りに広島市内に出て来ました。
かつての職場があった街。
もう遠い記憶の彼岸にそれはあります。




私は新任の教員時代を尾道で過ごしました。
尾道を離れてからも,時折,尾道商店街を彷徨いました。
その時には,尾道浪漫珈琲によく立ち寄ったものです。




福屋広島駅前店に支店ができていたことをずっと知らずにいました。




書物を求めてジュンク堂をうろついていた私は,
ふと「尾道浪漫珈琲」と書かれた看板の文字を目に留め,
思わずカウンターの端の席に座りました。




丁寧に淹れられたモーニングコーヒーは,
懐かしい尾道の香りがしました。




私の隣の席には,
いつのまにやら,青年教師時代の私が座っていました。
精悍な目つきの生意気そうな奴です。




私はそいつを一瞥して,
そいつにはわからないように,
「ぷっ」と吹き出してしまいました。




「がんばれよ!! 時空の歪んだパラレルワールドの分身よ。」
そう声を掛けた時には,
すでにそいつの姿はありませんでした。




「こいつも,この先,苦労するんだろうなあ。」
「そして,生徒のために人生を賭した大勝負に出る。」
「今度は勝てよ。」




電子書籍を読み終わりました。
まだ随分と時間があります。
青年教師が立ち去って行った懐かしい尾道の香りがする
苦くて甘いコーヒーを啜りながら,
私はこのブログを綴ることにしました。



posted by tanjito at 19:52| 広島 ☁| Comment(0) | 「鍛地頭-tanjito-」の国語教育論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする