2019年07月26日

「思いやり」と温情主義―ポストモダン終焉期の実相〔12-2〕






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7 ポストモダン終焉期の諸相




(1) 〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉低下の弊害




私は,県教委及び教員免許必修科目を担当する教育系大学講師の職員歴を含め,高等学校の教員を29年間勤めました。学校での専門教科は国語(大学では「教育課程論・教育方法論」,県教委では人事管理,研修管理,生徒指導,総合的な学習の時間,キャリア教育,特別活動,産業社会と人間,学校図書館(学)などが担当)でした。




教職の晩年を迎えるにつれ,私の胸中に巣食っていた憂虞(ゆうぐ)は肥大していきました。「児童生徒に限らず,(私自らをも含め,)教職員及び保護者を含めた大衆の〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉が年々低下しているのではないか?」と。児童生徒,教職員及び保護者等については校内や家庭訪問等の「対話」から,また大衆についてはホームページやSNSを通じて発信される「ブログ」,「メッセージ」などから,それを窺い知ることができました。――特に,「ブログ」に表現される言表群や言説には強い危懼(きぐ)の念を抱いており,当塾のブログシリーズで,その〈相対化〉に挑んでいるところです。(☞ 【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】を参照のこと。)――









冨山 数学も英語もそうなんですが,ものを考えたり,ものを分析したりするときの,ある種の言語能力ですよね。その基礎的な言語能力というのは,別にどこに行こうが共通マターです。だから,高等教育までで,ちゃんとやっておくべきことは,そっちだと思うんです。


 いわゆるウンチク学問っぽい教養は,その後でいいんじゃないか,と私は思っていまして。シェイクスピアがこう言ったとか,それもいいんだけど,英語もちゃんとできないのにシェイクスピアを語っている場合か,と思うわけです。


 ところが,日本の大学というのは,そういうウンチク教養学校になってしまっている。特に文系学科は。それが生きる力だ,なんていう評論家もいるんですが,言語能力がないんですから,生きる力はない


「なぜ経団連会長は「大学は,理系と文系の区別をやめてほしい」と大胆提言するのか」>今の日本の学生にこれだけは求めたいこと:経団連・中西宏明会長×経営共創基盤(IGPI)冨山和彦CEO 就活対談#2,「文春オンライン」編集部,2019.5.29 …c








冨山氏の歯切れの良い言い回しが素敵ですね(笑)。冨山氏の見解は「言語能力=生きる力」であり,だからこそ「共通マター」と読めそうです。私の憶測になりますが,私は,上記の冨山氏の言表群から,「言語能力」に育成の比重を置いていない日本の教育を憂慮する思いを感じ取ってしまいます。したがって,現状として,国民の「言語能力」は低いと仰りたいのではないかと…。ただし,冨山氏の「言語能力」の定義は,他のここでは引用していない文脈から,例えばビジネス界の特定領域の共通言語としてのニュアンスも含有している節があるので,一概に母国語としての「言語能力」とは言い難いのですが,本ブログではその点には触れません。




さらに,その母国語と論理的な思考(力)との連関性にかかわる指摘が茂木健一郎氏にありますので,次に引用しておきます。









母国語で考える方がより深く考えられますし,母国語を筋道立てて使えるようにならないと,物事を論理的に考えることはできません。


茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,英語を話す人の八〇%は第二言語として話している,検索元 amazon.com








今回,本ブログでは深入りしませんが,早(幼年)期の英語英才教育は考えモノです。




本論に戻します。これらの引用を併せて考察してみるに,私たちの〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉の低下は「感性・情緒」の欠落を招くだけではなく,論理的な思考力や創造性の低下を齎(もたら)すと言って過言ではありません。最悪の場合,私たちの「感性・情緒」が近未来では持たないであろうAIの「感性・情緒」に近似し,論理的な思考や創造性などを欠いてしまえば,それは世界をAIに乗っ取られるとかのお道化たレベルの話ではなく,現実的に私たちの〈尊厳(dignity)〉を喪失する,恐ろしい話になるのです。




「そんなことにはならないよ。」




「本当にそう言い切れますか?」









高度電子コンピューターを操作する人間型ロボット
AI22(提供 photoAC)








(2) 20世紀的な「知」の終焉―多視点を喪失した〈鄙陋ひろう〉の残滓ざんしの大衆化―




ア 〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉と〈鄙陋〉の残滓




〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の低下は,各人のものの見方や考え方(思考のチャンネル)における単視点化に近い現象を巻き起こしました。人間が「言語」で思考する(ものを考える)限り,例えば,身の周りに生起する諸現象を捉える視点(思考のチャンネル)は,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉が低下すればするほど,偏狭なものになることは論を俟たないところでしょう。デカルトを始祖とした物心二元論を源とする二項対立の思考(=20世紀的な「知」)は〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の低下により拍車を掛けられることになったのです。ポストモダンの終焉期を生きる各人が保有する視点は単視点化し,内在化していきました。その典型的な視点は 「自己/他者」=「有能(仮想的有能感※1)/無能」=「先(優先)/後」とする二項対立関係を土台とした自我中心主義を生んだのです。それによりポストモダンが生産した「小さな価値観」は消滅し,その代わりにカントが「根源的悪」としたエゴイズム( egoism・利己主義)が蔓延(はびこ)り,大衆は我執に塗れた〈鄙陋〉の残滓と化していきました。――それが,現在も,継続しているのです。そして,「現代ブログ言説」はそれを如実に表現しています。※2








イ 「思いやり」と温情主義




〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉の低下による人間の「感性・情緒」の劣化は,自我中心主義を構造化する契機となるだけではなく,それを持続可能とする活力源ともなりました。ポストモダンの終焉期に訪れた,そうした「他者」よりも「自己」を優位に置く典型的な二項対立の思考性は温情主義(パターナリズム)を促進し,大衆に「似非-思いやり」を強制しました。どちらかに優位性を認める二項対立の思考性が「自/他」関係に投影されるとき,大衆は挙(こぞ)って同情(sympathy)と憐憫(pity)を援助を必要とする側の立場にある者に降り注ぎ/降り注ごうとしたのです。









温情主義(読み)おんじょうしゅぎ(英語表記)paternalism


権力者,支配者が被支配者,従属者からの権利要求あるいは外部からの強制によることなく,いわば自主的に恩恵的諸財を与え,そうすることで被支配者の不満,反抗を曖昧にして階級的対抗関係 (労使関係あるいは地主=小作関係) を隠蔽しようとするイデオロギー,あるいは支配者の政策のことをいう。したがって階級的対抗関係を表面化させようとする動きに対しては強力な弾圧をもってのぞむ。必ずしも日本に特殊なものではないが,第2次世界大戦前の日本では家族主義イデオロギーという形で存在し,大きな役割を果した。


コトバンク:温情主義(読み)おんじょうしゅぎ(英語表記)paternalism,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典









近代の個人主義は,一方では端的な利己主義であるとともに,他方では他者への思いやり(道徳感情,同情,共感,寛容の精神,憐憫,……その類い)をも内包するものである。だが,他者への思いやりというと,なにやら他者に主眼があるように一見思えるが,実は,自己の感情的満足がその尺度になっているのである。つまり,他者への思いやりをもつことが自己の満足となる限りにおいて,その限りにおいて思いやりを重視しようという,自我中心主義のバリエーションにすぎないのである。


長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ―知の構築のために―』,山川出版社,p.124,原文朱書き








ただし,ポストモダンの終焉期に発芽したノーマライゼーションには,同情主義(パターナリズム)に見られる,一方に優位性を据えた二項対立の思考に基づく差別性を払拭した脱中心化の発想が窺えます。









ノーマライゼーション(英語表記)normalization


障害者や高齢者がほかの人々と等しく生きる社会・福祉環境の整備,実現を目指す考え方。1950年代,デンマークの知的障害者収容施設で多くの人権侵害が行なわれていたことに対し,行政官ニルス・エリク・バンク=ミケルセンが提唱した理念で,1959年同国で制定された知的障害者法に盛り込まれたことから欧米諸国に広がった。従来の福祉活動で行なわれてきた,社会的弱者を社会から保護・隔離する傾向を反省し,すべての障害者の日常生活の様式や条件を,通常の社会環境や生活様式に可能なかぎり近づけることを目指す。また障害者が自己を確立し,社会的価値のある役割をつくりだし,それを維持できるよう援助していくことも大切であるとされる。日本では,1981年の国際障害者年をきっかけに認知され始めた。やがて国際社会における福祉の基本理念として定着した。


コトバンク:ノーマライゼーション(英語表記)normalization,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典









脱中心化(読み)だつちゅうしんか


〘哲〙 制度や秩序の中心から遠ざかり,逸脱すること。フランスの M =フーコーが現代社会と現代人の行動を特徴づけるために用いた語。


コトバンク:脱中心化(読み)だつちゅうしんか,だつちゅうしんか【脱中心化】,出典 三省堂








つまり,「脱中心化」の場合,対象間は全てそれらの関係性により規定されるのです。換言すれば,「自己」を中心(優位)に置く発想はないわけで,そういう点からしても,ある意味,「脱二項対立」というわけです。




さて,「思いやり」は当塾の基本理念に掲げてあります。当然ながら,この場合の「思いやり」が温情主義(パターナリズム)の陥穽かんせいおちたものでないことについては言を俟ちません。当塾名の「鍛地頭」と「〈言語能力〉・〈言語運用能力〉」及び「感性・情緒」との連関性を鑑みるに及び, 「〈言語能力〉・〈言語運用能力〉」 を「鍛」えることが「地頭」を「鍛」えることであり,それは「感性・情緒」を豊かにするとともに,〈思考力・判断力・表現力〉を磨き,多視点を形成することでもあったのです。まさにこれが「鍛地頭」です。すなわち,多視点でもって,「ありのままの《自己》」を含む了解・到達不能の「ありのままの《他者》」に近接する行為こそが,当塾が求める〈思いやり〉であり,当塾の基本理念である〈思いやり〉は 「〈自己〉―〈(自己を含む)他者〉」関係が前提となった「脱中心化」の思考性の上に成り立っているものなのです。









咲き揃うバイカラーチューリップの近影
春の訪れ(提供 photoAC)








  令和元年7月26日(金)








塾長 小桝 雅典 








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※1 速水敏彦(2016.10):『他人を見下す若者たち』,講談社[キンドル版]を参照のこと。




※2 次の【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】を参照のこと。ただし,本シリーズは完結していないことから,「現代ブログ言説」の十分な〈相対化〉について,(現状では)表現されていない。したがって,今後に譲るところが多い。








【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】

















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2019年07月07日

ポストモダン終焉期の実相〔12-1〕






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6 ポストモダン終焉期の大学入試




(1) スケールの大きい人間であれ




皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。




先日のことです。本シリーズを綴っていて,ふと思い起こしたことがありました。




娘が高校3年生の時のことです。娘は一人の大学受験生でした。娘の目標校は娘が本当に学びたいことを学ぶことのできる大学でした。それは我が家の,というか,私の指導方針でした。勿論,娘はその指導方針に納得していました。なぜならば,親父が怖いからではなく,また親父に威厳があったからでもなく,在籍していた高校の「総合的な学習の時間」で探究的な学習※1を行ったことが契機となり,その探究の続き,つまり,進学したら,同じテーマで本格的に研究したいとの思いを確と胸中に秘めていたからでした。




「((娘の)研究テーマは)学問の領域的には結構複合的だから,目標校を定めるのに苦労したけど,〇〇大学□□学部ならば,その思いが叶いそう。」




これが娘の志望理由だったのです。この言葉を耳にした私は内心とても喜びました。




[よっしゃ!! それでええ。志望理由が,偏差値が高い,低いなど,(偏差値が)どうのこうのではないからな。]




その娘が,ある日,私の仕事部屋にひょっこりと顔を覗けて,こう言ったのです。




「父さん,今日,同じ学年の理系の男子(生徒)たちが話をしているのが耳に入ってきたんよ。その子たちは「(自分の)言語能力がないから,数学の問題文を正確に読み取れない(読み取るのに時間が掛かる)。常日頃から,国語をしっかりと勉強しておけば良かった。」と口惜しそうに言っていたわ~。その話を聞いて,[(かつて高校の国語教師だった)父さんが日頃言っていることだなあ~]と思ったんよ。父さんの言うことも,偶(たま)には当たるんだなあ~って!(笑)」




「五月蠅い(うるさい)!! 「偶に」とは何事じゃ!! わしは常にホンマのことしか言わんわい!!(笑)」




「きゃはっ!!(笑)」




「同じ学年の理系の男子(生徒)たち」はいずれも東大志望だったそうです。娘の周囲には東大や京大を志望する生徒たちが大勢いました。




[(ある意味,)この「男子(生徒)たち」は優秀だなあ。「言語能力」の重要さを実感しているのだから。]と私は思いました。




そう思いながら,同時に私は次の一節を想起していました。









 情報を伝達するうえで,読む,書く,話す,聞くが最重要なのは論を俟たない。これが確立されずして,他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと,私が専門とする数学のような分野でも,文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから,一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは,数学の文章題である。読む,書く,話す,聞くが全教科の中心ということについては,自明なのでこれ以上触れない。


藤原正彦(2016.4):『祖国とは国語』[キンドル版],国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com,下線は筆者が施しました(以下,同様)。…a








当たり前のことと言ってしまえばそれまでですが,藤原氏のような偉大な数学者がこのように語っておられるところが興味深いのです。巷間で言う「(教科としての)国語ができれば,他の教科(科目)はできるようになる。」というやつです。




前回の本シリーズで,私は「地頭」を定義しました。その上で,それを「鍛える」ということは各人の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を〈鍛える〉ことであり,それが最重要であると述べました。また,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えれば,「感性・情緒」も豊かになるという旨の指摘を行っています。※2









 これら情緒の役割は,頼りない論理を補完したり,学問をするうえで重要というばかりでない。これにより人間としてのスケールが大きくなる。
 地球上の人間のほとんどは,利害得失ばかりを考えている。これは生存をかけた生物としての本能でもあり,仕方ないことである。人間としてのスケールは,この本能からどれほど離れられるかでほぼ決まる。脳の九割を利害得失で占められるのは止むを得ないとして,残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害得失では救われない。
 ここを美しい情緒で埋めるのである。


前掲書a:国語教育絶対論,(四)国語は情緒を培う,検索元 amazon.com








娘との「対話」の中で,私の脳裡のスクリーンには,この引用と大学入試の現況とが二重写しとなり,





    • 「「利・得」=「進学の目的が偏差値の高い大学への合格,「頭がいい」と言われている大学への合格」

    • 「偏差値の高い(「頭がいい」と言われている)大学への合格=国の行政庁や大手企業等への就職=将来の安定した富裕な生活」




が描き出されるとともに,来たる一元論的トランスモダンの時代では,





    • 「利・得」≠ 「進学の目的が偏差値の高い大学への合格,「頭がいい」と言われている大学への合格」

    • 「 偏差値の高い(「頭がいい」と言われている) 大学への合格≠国の行政庁や大手企業等への就職≠将来の安定した富裕な生活」




とする相対概念がくっきりと映し出されていたのです。そして,娘の無邪気な笑顔を見つめながら,[〇〇(=娘の名前)には,スケールの大きい人間になって欲しい。]と無言で語り返したのでした。









宇宙に浮かぶ地球の輪郭線から昇る太陽
地球の目覚め(提供 photoAC)








(2) 〈地頭力〉を測る〈大学入試〉の必要性




先日〔2019.5.29(水)〕,文部科学省は第1回「大学入学共通テスト」の実施大綱案を発表しました。それによると,





    • 実施日は2021年1月16日(土),17日(日)である。

    • 科目は「大学入試センター試験」と同様(「英語」を除く)である。

    • 「英語」は大学入試センターが認定した民間試験の2回までの受験結果(2020年4~12月分)を使用する。

    • 本年6月上旬に正式な大綱を定める予定である。

    • 同年6月中旬に問題作成の方針や配点を公表する予定である。




ということですが,就中重要なことは,




(評価の対象=測る能力として,)「知識・技能」だけではなく,「思考力・判断力・表現力」を重視する




ということです。




因みに,6月7日(金)には「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト出題教科・科目の出題方法等及び大学入学共通テスト問題作成方針について」(独立行政法人 大学入試センター)が公表されました。それによると,次のとおりです。









第1 問題作成の基本的な考え方 


○  ⾼等学校教育の成果として⾝に付けた,⼤学教育の基礎⼒となる知識・技能や思考⼒,判断⼒,表現⼒を問う問題作成
 平成 21 年告⽰⾼等学校学習指導要領(以下「⾼等学校学習指導要領」という。)において育成することを⽬指す資質・能⼒を踏まえ,知識の理解の質を問う問題や,思考⼒,判断⼒,表現⼒を発揮して解くことが求められる問題を重視する
 また,問題作成のねらいとして問いたい⼒が,⾼等学校教育の指導のねら いとする⼒や⼤学教育の⼊⼝段階で共通に求められる⼒を踏まえたものとなるよう,出題教科・科⽬において問いたい思考⼒,判断⼒,表現⼒を明確にした上で問題を作成する。  


 ○  「どのように学ぶか」を踏まえた問題の場⾯設定
 ⾼等学校における「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善のメッセージ性も考慮し,授業において⽣徒が学習する場⾯や,社会⽣活や⽇常⽣活の中から課題を発⾒し解決⽅法を構想する場⾯,資料やデータ等を基に考察する場⾯など,学習の過程を意識した問題の場⾯設定を重視する。 


令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト問題作成方針 ,pp.1-2









出題教科・科⽬の問題作成の⽅針


(1)国語
○ ⾔語を⼿掛かりとしながら,⽂章から得られた情報を多⾯的・多⾓的な視点から解釈したり,⽬的や場⾯等に応じて⽂章を書いたりすることなどを求める。近代以降の⽂章(論理的な⽂章,⽂学的な⽂章,実⽤的な⽂章),古典(古⽂,漢⽂)といった題材を対象とし,⾔語活動の過程を重視する。問題の作成に当たっては,⼤問ごとに⼀つの題材で問題を作成するだけでなく,異なる種類や分野の⽂章などを組み合わせた,複数の題材による問題を含めて検討する。


○ 記述式問題は,⼩問3問で構成される⼤問1問を作成する。実⽤的な⽂章を主たる題材とするもの,論理的な⽂章を主たる題材とするもの⼜は両⽅を組み合わせたものとする。⽂章等の内容や構造を把握し,解釈して,考えたことを端的に記述することを求める。⼩問3問の解答する字数については、<ママ>最も⻑い問題で80〜120字程度を上限として設定することとし、 <ママ>他の⼩問はそれよりも短い字数を上限として設定する。


別添,p.1








高校・大学の教育を一体となって変革する高大接続改革の柱が「大学入学共通テスト」です。その理念(特色)として「思考力・判断力・表現力」を重視することを掲げているのです。つまり,これまでの「知識・技能」に偏った入試制度――これは入試観,入試観ということは求められる人材観とも言えるわけですが,――への反省を土台にしているということです。





    • 「大学入試センター試験」を初めとする大学入試が「知識(・技能)」,延いては「受験テクニック」を測定の対象とすることにより,高校での教育もそれに対応するため,「知識(・技能)」及び「受験テクニック」偏重の教育に埋没してしまった。

    • そして,受験産業界が利益目的(教育=金)のため,そうした傾向に拍車を掛けることにより,受験生はやらされる,受け身の学習ロボットとなった(=「地頭」を「鍛」えることが軽視された)。

    • その結果,知識(量)はあっても,自らそれを活用できず,上司などの他者から指示を受けなければ,自ら行動を取ることのできない人材が世に溢れた。

    • これまではそれで良かった。上司の命令に受け身である部下は使いやすかった。

    • しかし,AIが導入されてくることにより,従前の「知識(情報)」やその処理は全てAIに任せれば良くなった。

    • 受け身一身の部下はAIに取って代わられることになった。

    • そこで必要とされるのは,AIにできない「創造( creation )」(AIに知識(情報・データ)を蓄積し,必要に応じて解析,加工させ,その結果を用いながら創造する〈新たな文化〉)であり,人間にしかできない〈対話〉による〈共創造(co-creation)〉であった。

    • そうした優れた営為を行うためには,物事を多角的・多面的・総合的に捉えることのできる多視点を有する〈思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)〉を身に付けた人材が必要となった。




要するに,(AIでは不可能な)「地頭」が「鍛」えられた人材(「地頭力」)が求められるようになったのです。そして,その「地頭力」を茂木健一郎氏は「自分で考えられる力」「探究できる力」と表現されています。




「地頭」の定義については,こちらをご参照ください。









日本のこれまでの教育は,正解があってその通りにやるのが主流でした。しかし,繰り返しますが,AIが導入される未来においては,指示待ち人間は必要ありません。自分で仕事を見つけて,クリエイティブかつ論理的(きちんと筋道を立てて考えること)になることが求められています。そこでは,自分で考えられる力や探究できる力が必要です。


茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,英語を話す人の八〇%は第二言語として話している,検索元 amazon.com…b








各論的な言い方を致しましたが,こうした事情から――これだけの事情ではありません。――現行の「大学入試センター試験」とは異なった, 「思考力・判断力・表現力」をも測定の対象とする「大学入学共通テスト」が実施される運びとなり,国語と数学に記述式問題が導入されることとなったと言って過言ではないでしょう。この新テストは飽くまでも初の試みですから,事の正否を即断することはできません。しかし,その「社会(受験)システム」としての「テスト」を受験する受験者は(可哀想にも)居るわけですし,国語と数学への部分的な記述式の導入が本当の意味で,受験者の総合的な〈思考力・判断力・表現力〉を測定できるかと言えば,間違いなく「NO!」でしょう。※3しかも,僅少な,部分的に過ぎない記述式の導入ですから,この先,当分の間,現行の「受験システム」は作動し続けます。さらに,「思考力・判断力・表現力」を問う設題に対する受験産業の「小手先テクニック試論」が横行していくのでしょう。




しかしながら,〈新しい時代(=ポストモダンの時代が終焉を迎え,一元論的トランスモダンの時代に移行しようとしている時流と「令和」とが必然的偶然によって一致した時代)〉を迎え,求められる人材が変容し,そのため「受験システム」が若干シフトし始めたことは〈事実〉であると言えるのです。




だからこそ,それこそ「小手先」ではなく,今後〈抜本的な大学入試〉の見直しが必要なのです。大学入試が変革されれば,自ずと高校入試・中学入試はその相貌を変じていくことでしょう。「大学入学共通テスト」なんぞは廃止し,各大学が各大学に必要な「地頭(≒探究力(=言語能力・言語運用能力))」を精査する〈人物(地頭)本位の入試〉を展開すべきなのです。そのためには各大学が各大学の〈オリジナリティー(=アドミッションポリシー)〉を確立しておくことが条件となります。ただし,かつての一期校・二期校時代のように,難問・奇問が受験界を闊歩するようではいけません。(参考:次節「(3) 「エリート言説」の〈相対化〉」)そうかと言って,各大学が各大学に必要な「地頭」を求めるための〈オリジナリティー(アドミッションポリシー)〉を真摯に考えるならば,生き残りを掛けた大学も満更難問・奇問ばかりとはいかないと思うのです。









朝靄にぼんやりと浮かぶ山々と雲の中に滲むように昇ってきた朝日
朝もやの風景(提供 photoAC)








(3) 「エリート言説」の〈相対化〉




前節で「大学入試センター試験」から「大学入学共通テスト」への移行の要因について,「思考力・判断力・表現力」を基軸とした考察を行いました。ただし,この移行には,その他の要因も考えられるところです。その一例をご紹介しておきます。









かつて入試時期が一期校(旧7帝大など)と二期校に分かれていた国公立大学では、学習指導要領の範囲を超えた難問・奇問の出題が横行していました。


大谷奨・筑波大学教授によると、共通一次を導入した狙いは、個別試験から難問・奇問を排し、二次試験では内申書の重視や面接なども含め多様な選抜を行うことにより、加熱していた「受験戦争」を緩和するとともに、大学間の格差もなくすことが期待されたといいます。しかし実際には、共通一次による足切り〈ママ〉が横行したり、入試時期が一本化されたことで偏差値偏重による序列化が逆に進んだりする、という事態が起こってしまいました。


そこで、1987年度には共通一次で受験機会の複数化が導入されました。さらに、国公私立を通じて各大学が自由に利用できる「アラカルト方式」の共通試験を目指したのが、センター試験でした。


(中略)


しかし、多くの私大が参加したことによる受験者層の「下方拡大」や、アラカルト方式による複雑な受験パターンの広がりなどにより、制度のほころびも見えるようになりました。そうした中、2012年度センター試験で起こった問題冊子の配布ミスなどが「制度廃止に直結する大事件」(倉元教授)となり、今回の大改革につながったといいます。


「高校生 大学入試、まだまだ将来的に変わる!?」(渡辺敦司,ベネッセ 教育情報サイト,2019.6.12,2019.6.20 最終アクセス)








長い引用を一言でまとめてしまうのも如何とは思いますが,こうした「移行」にかかわる要因分析が是であるならば,この「移行」には国の行政的な事情もあったことになり,また,それは現ポストモダン終焉期であれば〈当たり前〉のことなのかもしれません。




ただし,「共通一次試験」が昭和54年(1979)から平成元年(1989)まで実施され,平成2年(1990)より「大学入試センター試験」に移行,そして令和3(2021)年1月からは「大学入学共通テスト」の開始と,長期間にわたって施行される入試制度を俯瞰するとき,――先述したように,「大学入学共通テスト」においても,短期間の間にその相貌を「思考力・判断力・表現力」等を問う形式に一新できるとは思えないので,――「なぜこんなにも〈長期〉にわたるのか?」と言った疑問は拭い切れないわけなのです。




全くの壁越し推量で恐縮ではあるのですが,その根底にはホストモダンが生成してきた「エリート言説」――「脳内に蓄積した豊富な知識量を誇り,上司の命に従順にそれらの知識を引き出して見せる優秀な人言説」,それに付随して,そうした方々の内の多くが「共通一次テスト」・「大学入試センター試験」(・「大学入学共通テスト」)に代表される偏差値世界の上位層と連動していることから,「偏差値の高い大学を卒業・修了した偉い人言説」―― が蔓延(はびこ)っているとしか思えないのです。




私は「(経済力を含め,)精神性が豊かである」との意味合い/願いを込めた〈富国〉に異論を唱えようとはしていません。〈高次の文化〉を創造する〈富国〉の在り方には大いに賛成です。ですから,ポストモダンの時代に「エリート言説」が最上の権威性を保持し続けることは重々理解できますし,そうした所謂「エリート」が重宝であったことも承知いたしております。――それに似た職場にもいましたから。――




しかし,「Society 5.0」などにも見受けられるように,AI時代は,時間を要するにせよ,私たちの身近に迫ってきていることは事実です。「豊富な知識量」は人間を上回るAIが代替します。――飽くまでも「代替」と述べておきます。――大量の情報処理もAIが行います。いつの日かAIは各家庭に〈侵入〉してきます。そうした時代は「人間/AI」(=人間がAIを使いこなす。すなわち,力関係は「人間>AI」)とする二項対立的な思考性ではなく,「人間(自己)-AI―人間(他者)」,さらに具象化すれば,「人間(自己)―AI,自然,神仏等―人間(他者)」が共存・協働する一元論的な発想で捉えられなけばなりません。そうでなければ,万人が参加する〈新しい文化の創造〉を成し得ませんし,AIが人間の身近に存在するということは,――ある意味,理想的ですが,――万人にAIと協働し〈新たな文化〉を創造する権利が与えられるということでもあります。――AIの進化の方向性にも拠るでしょうが,AIとの共存が人によりけりで,大いなる〈懈怠(けたい)の心〉を生む原因ともなるでしょう。一方,〈新しい文化〉を創造する人たちもいるでしょう。その意味で,AI普及の初期に人類は,一旦〈二極分化〉するのではないでしょうか。――したがって,人によって様々な環境があるのですが,「万人による万人のための〈新文化創造〉」のためには,――概括的に述べますが,――AIや(AIを除く)他者と協働し〈新しい知〉を構築する(=〈知恵〉を出す)上において,〈思考力・判断力〉,そして,とても重要となる〈対話力(=「了解・到達不可能な自己及び自然等を含む《他者》」に近接しようと試みる営為)〉を含む〈表現力〉,〈相対化能力(≒俯瞰力)〉,延いては〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉を,時間は掛かるでしょうが,磨いていかなければならない(=「地頭」を「鍛」えなければならない)ということになるのです。そうです,「鍛地頭」が必要かつ重要なのです。――〈(自己を含む)他者〉との〈対話〉は,一面,〈鬩ぎ合い〉を有するものです。それは建設的でない,不毛の議論,さらに,それより低いレベルの言い争いのことではありません。況(いわん)や立場上の強者の御機嫌伺などではなく,絶対的な上意下達(じょういかたつ)だけのコミュニケーションを指すものでもありません。――その際,現代のSNSやブログ文化の見直しは不可欠です。このことは「SNS」や「ブログ」そのものを批判しているのではありません。それらの操り方を問題視しているのです。詳しくは,「関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ」※4をご覧ください。









 国語力の低下の原因は、本を読む機会が減ったことがすべてではありません。核家族化など家族の在り方の変容によって起こった家族から子供への言語教育力の低下。近年のLINEをはじめとするSNSの普及。これらも原因のようです。


 最近では、LINEに送信取消機能ができました。今まで以上に文章を考えず、そして読み返しもせず送ってしまうことが増えたという人も少なくないでしょう。まるで会って話しているかのようにやり取りが出来るSNS。便利ではありますが、メールや手紙に比べると文章を組み立てず、読み返すことなく安易に送ってしまいがちです。


「AI社会を生き抜くために 国語力を見直そう!」(荻野友里(早稲田大学),朝日・日経・読売3社共同プロジェクト 学生は言いたい! 学生がつくる,学生のための News Debate Project,2019年6月15日,2019.6.20 最終アクセス)…c









 これからの時代、AIはどんどん身近なものになっていくでしょう。ですが社会の全てを飲み込むわけではないはずです。「AIに仕事が奪われる」と怯えるのではなく、人間だからこそ備わっている国語力の向上に努める。できることは、理系の能力を養うことだけではないと思います。何事も偏ってしまうのはよくありません。国語力の向上にもう少し、目を向けていきたいものです。


前掲サイトc(2019.6.20 最終アクセス)








若い世代の方が,上述の引用のようなお考えをお持ちであることに,私は何故か安堵感を持つとともに,敬服すら致す次第なのです。




さて,本節の結論です。




上述したように考えてくると,AI時代(≒一元論的トランスモダンの時代)には,如何せん,ポストモダンの〈申し子〉たる所謂「エリート」及び「エリート言説」は,少なくとも知識の貯蔵と出し入れの点において,〈不要〉となってしまうということです。




ここで,一言付言しておきます。




いくら現行の大学入試や「エリート言説」を否定しようとしても,事実,社会システムとして作動している限り,それは無理ではないかと仰る方が必ずおいでになると思います。




確かに,事実を否定するわけにはいきません。しかし,「「地頭」(=〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉) を「鍛」える こと」は,日常の工夫において,どなたにもできることだと思います。例えば,受験に直結している受験生に茂木健一郎氏は,次のようなお言葉を贈っておられます。









一年間は開き直って今の受験システムをまず突破しよう。でも,公式の丸暗記とかじゃなくて,自分で発見しながら探求型を採り入れてなるべく楽しく勉強しよう。受験が終わったら,切り替えてまた楽しく探究してください。


茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,大変化の時代を生き抜ける子に育てるために,検索元 amazon.com








私も同様に考えています。――受験生に特化することなく,〈人〉は工夫一つで,日常生活の中において「地頭」を「鍛」えることができます。詳細は別の機会に譲りますが,読書,「他者」との〈対話〉,調べ物,運動,芸術鑑賞,ブログの作成等々…それぞれに適切な方法はあるにせよ,その気になれば,それは可能なのです。――「受験言説」のパラダイムシフトにはかなりの時間を要するでしょう。ですが,だからと言って,手を拱(こまぬ)いているわけにはいきません。私としても本ブログだけの言表行為で終わってしまうわけにはいきません。言表行為を採った責任上。




そこで,徐々にではありますが,「鍛地頭-tanjito-」として,まずは大学受験生を含む高校生を対象とした「〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉育成のプログラム」の準備に取り掛かったところです。今夏から試行段階に入る予定ですので,奮ってご参加いただけますと幸甚です。






「研究のできるオンライン言語(運用)能力育成私塾「鍛地頭-tanjito-」」とは
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【関連サイト】
「Society 5.0」(内閣府)








  令和元年7月7日(日)








塾長 小桝 雅典 












※1 「探究的な学習」については,「「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.6.2)を参照のこと。




※2 ※1のブログを参照のこと。




※3 令和元年(2019)年7月4日,NHKの文部科学省への取材により「大学入学共通テスト」の採点にアルバイトの大学生を認める方針であることが分かりました。既に事の是非を問う段階にはありません。私は長い間高校の国語教師を勤めて来ましたからよく分かることがあります。それは「どんな国語教育に通じたプロが集結しても,試験の採点においてブレが生じるときには生じる。」ということです。複数での確認体制を免罪符にしようとする主催者側の私情(笑)は理解できますが,大学入試の第一関門とも言うべき〈共通性・公平性〉を欠くことのできない「大学入学共通テスト」だからこそ,問題は余計にも重大なのです。一部の「エリート」の考えることです。自我中心主義に塗れています。「大学入学共通テスト」というシステム(制度)の履行を職責上押し切って遂げたいのです。こうした「共通テスト」が廃止にならない陰に,「ポストモダンの「エリート」」だけを育成すれば良いとする〈国体〉が存在すると考えられます。その左證が今回の「大学生アルバイト問題」と言えるでしょう。私の身近にいる大学受験生の生の言葉です。「ええ!! 不安で仕方がない。人生が決まるんよ。私たちのことは何も考えられていない。なぜこんなことを考えるん? ねえ,先生!!!」――私が怒られても…




※4 本シリーズは完結していないことから,「現代ブログ言説」の十分な〈相対化〉について,(現状では)表現されていません。したがって,今後に譲るところが多いため,あらかじめお断り申し上げます。








【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】

















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2019年06月01日

「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる〔11〕






1 「通常の授業/補習授業」




「通常の授業は徹底して考える授業をするぞ。でも,始業前や放課後の補習授業は1点を無駄にしない(=1点の獲得に喰らい付く,受験テクニックを体得する)授業をするけんのう。」(筆者注:国語科教師が方言丸出し。)




高等学校の国語科教師として,毎年,どの学年も,どの科目も,最初の授業に私は学習者(生徒)に対してこのように明言してきました。それは初任者の時代(昭和63年・平成元年)から,県教委の職員や学校で主任・管理職となって国語の授業ができなくなるまで続きました。




「(国語の授業で,)50分間(1コマ)の授業において,その三分の一以上を教師の言葉で語ったら,その授業は失敗だと思いなさい。」




私が出身大学の教育学部(旧)国語教育学専修で叩き込まれた国語科授業観の一つです。ですから,授業者である国語科教師がダラダラと喋り捲る,所謂レクチャー型の授業を行うのではなく,――無論,授業の目的(ねらい)に合わせて,そうした授業があっても良いのですが,――簡潔に述べれば,私は学習者に〈考えさせる授業〉を行うことが信念でした。授業は真剣勝負です。1コマの授業の中で,必要な知識(情報)は注入し,――授業者の語り一辺倒に頼ることなく,授業のコンテクストの中で学習者の脳裡に必要な知識(情報)をインプットしていき,――学習者の既知の知識(情報)と併せて「地頭」をどれだけ活性化させ,鍛えることができるか。その点に全身全霊を打ち込んだものでした。毎日,毎時間の授業が終了すれば,内省によって授業の課題を抽出し,その〈内省〉を生かしながら,翌日の3~4種類の授業を組み立てました。私はカード(法)を使って授業を行っていました。――表には板書計画,裏には確認の質問からサブ→メインの発問計画を記述したA6判のカードを作成し,授業に携帯していたのです。殊に,メインの発問では様々な学習方法・形態を駆使しながら,しっかりと学習者に思考・判断・表現させたのです。最終的にカードは約500枚ほどになりました。――




ですから,1単元を終えるのに他の先生方より時間が掛かりました。それは必然でした。当時,私が国語科教師として職歴を積んだ学校には「シラバス」(単年度の授業計画や評価基準等を掲載した冊子)は存在せず,授業の進度は,随時,国語科の先生方との話し合いで決まっていたのです。




「小桝っさん,あんたのせいで,今回も(定期)考査の試験範囲が短くなったじゃないか! 何をトロトロやりょうるんなぁ! そんな授業をされたら堪らんわい! 受験に太刀打ちできなくなるじゃないか!! 〈考えさせる授業〉だって!? そんなもん理想よ!!」




先輩の先生方によく言われました。




事の是非は扨(さて)措いて(笑),常に私は自身が(教員として)初任者の折にも,そうした忠告(助言? 叱責? 詰(なじ)り?)に猛反発しました。先輩であろうが,容赦しませんでした。大喧嘩になったことも,事実,ありました。




「授業進度の速さだけが受験学力,延いては国語力に直結するのか!?」




「指導書(先生用ガイドブック)の文言を教科書教材の行間に蟻が這ったような文字で書き込み,それを滑滑(つらつら)と授業で読んで学習者に聞かせ(る授業をして),(学習者に)国語力が付くわけがない!!」




「〈考えさせる授業〉をして,「地頭」をしっかりと「鍛」えれば,受験なんぞ屁でもない!!」(筆者注:下品な表現で申し訳ございません。)




その代わり,補習授業で私は豹変しました。最初のクラス編成で,私の通常の授業を受けていない学習者も混じっていましたが,それでも意識的に豹変しました。そうしないと,自らが壊れてしまいそうに思えたからです。なぜならば,信念を曲げるのですから。「受験が社会システムである以上,私がそのシステムに住まわされ,神仏でない以上,信念を曲げないと「(受験)テクニック」だけは教えられない。」と当時の私は考え,困惑・困窮していたのです。




「(ならば,)1点を無駄にしない解き方を教えてやる!!」




例えば,センター試験の漢文などは,2週間あれば,得点を上げることができます。実際,ある年,模擬試験では全国平均点より十数点以下という学年を,センター試験直前の補習授業(期間 2週間)で,私のクラスだけは本番の試験で全国平均点を上回る成果を上げたことがあります。――ただし,私のクラスだけではダメなのです。少なくとも国語科の教員集団が組織性をもって,当該学年を対象とした成果を出さなければ。飽くまでも受験社会では。だから,いつしか私の補習授業には,他のクラスの学習者がこっそりと混ざる帰結に至ります。全く宜しくない。――しかし,これらセンター試験の漢文で成果を上げた学習者が,その程度のレベルの学力で漢文学を読めるかと言えば,回答は「(ほぼ)NO!」であるわけです。




一体,センター試験の「漢文」,延いては「国語」は何(の力)を測る試験なのか!? しかも,受験制度は社会システムだから(仕方がない)と(〈ホンモノ〉ではない)諦観の境地に仮寓するなら未(ま)だしも,(〈ホンモノ〉の)「社会システム」が存在することすら気づいていない大衆社会の実相があるのではないか!?




「時間を掛けて,受験テクニックに自ら辿り着き,活用する(=自分のものにする)「地頭」をつくれば,何も「困惑・困窮」することはない。」――現在の私はこう思うのです。









漢文,漢詩,中国語背景
漢文、漢詩、中国語背景(提供 photoAC)








2 「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる




皆さん,こんにちは。
生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」塾長の小桝雅典です。




「地頭」を「鍛」えれば受験はクリアできる。




これが私の信念であり,〈真実〉であると思います。受験テクニックも,そのテクニックを発見し,活用できる「地頭」があれば習得できるわけで,要するに「地頭」を「鍛」えること(=「鍛地頭」)がポイントなのです。――「鍛地頭」がポイントになる理由及びその具体的な方法については,追々,明らかにしていきます。ただし,ここでは,正しい鍛え方や鍛えるための考え方が存在すること,「鍛」えるためには,こどもたちの発達段階に即して長時間が必要であることを付言しておきたいと思います。――受験に対応できる学力(=仮に「受験脳」)は「地頭(力)」の一部を構成していることは事実であると思いますが,それだけのことです。なぜならば,「地頭(力)」の極一部でしかない受験脳だけでは,日常生活を真面(まとも)に送ることができないのが,何よりの左證だからです。そして,このことは万人が認めることでもあります。









受験テクニックだけで,地頭のできていないバランスを欠いた勉強ばかりしていると,たとえ希望の大学に入れたとしても,入学後は伸び悩んでしまいます。「大学までの人」と「大学からの人」と昔からよくいいますが,「大学までの人」にならないための一番の方法は,じつは探究学習にあります。探究学習を通じて,地頭力を鍛えることが絶対に必要なのです。「大学からの人」になれば,大学に行かなくても大丈夫,とさえいえます。


茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,超進学校ほど,受験テクニックは教えない,検索元 amazon.com…a









探究学習によって学習を効率化する脳の回路が働き,結果的には短期間で受験科目を伸ばすことができるのです。


前掲書a:第2章,探究学習が基礎となり,受験に受かる学力がつく,検索元 amazon.com









探究学習は,来るべきAI時代に備えるために必要な勉強法であるだけでなく,いわゆる旧来のエリート校といわれる大学の入試を突破するためにも,有効な勉強法である,ということです。


前掲書a:第2章,探究学習が基礎となり,受験に受かる学力がつく,検索元 amazon.com









一年間は開き直って今の受験システムをまず突破しよう。でも,公式の丸暗記とかじゃなくて,自分で発見しながら探求型を採り入れてなるべく楽しく勉強しよう。受験が終わったら,切り替えてまた楽しく探究してください。


前掲書a:第2章,大変化の時代を生き抜ける子に育てるために,検索元 amazon.com








茂木健一郎氏の前掲書aだけから四つもの引用を一挙に行うことは,研究に正対する態度からすれば,「なっとらん!!」わけです。なぜならば,私の立論に都合の良い文献(箇所)だけを引用しているので,アンフェアだからです。換言すれば,茂木説に反論する引用も含めるべきだということです。そのことを承知で引用を試みた次第です。私の考えと全くもって通底していることから,私自身が嬉しくて興奮したので。――申し訳ございません。言い訳です(笑)。――




茂木氏は「探究学習」と紐付けて 「地頭(力)を鍛える」必要性を「絶対に」を付加して論じておられます。――「探究学習」とは,自らの周辺に日常的に生起する問題を自ら発見し,それを解決するため,情報を収集・分析・活用し,他者と〈対話〉を持ち,協働し,問題解決を行う(アウトプットする――結果・成果が出なくてもO.K,探究の過程を重要視する――学習(教育)方法※ⅰのことです。今次改訂となった新学習指導要領でも「総合的な探究の時間」を初めとして,各教科において重要視されています。――「探究学習」は「研究」の基礎づくりを担う学習方法ですから, 「地頭(力)を鍛える」 ことは,つまり「研究脳」をつくることとも言えるわけです。




このように,上記の引用文からも「地頭力(研究・探究学習)⊃受験学力(受験テクニック)」であることが読み取れるのです。




調子に乗って,前掲書aから多くの引用を行った序に,もう一つ。









僕(筆者注:茂木氏)の実感からいくと,日本で一番「頭がいい」と思われているであろう東大生でも,「本当の思考力」を身につけられている学生は,一割くらいです。


前掲書a:はじめに,東大生の一割しか,本当の思考力を身につけられていない,検索元 amazon.com








流石,茂木氏。東大出身の茂木氏が,「本当の思考力」を身に付けておられるからこそ(東大生の内実を含めて)言える言表です。というのも,「本当の思考力」とはまさに「地頭力」のことであり,それを「鍛」える必要性を唱えるとともに,「頭がいい」との評価言を疑うことなく口にする「東大(・京大)言説」に回収された大衆の相(すがた)を暴いていると読み取れるからです。これらの点については,私は既に次のブログで指摘していました。




【参考】















真剣な表情でパソコンとスマホを睨めっこする机に付いた男の子
真剣な顔でスマホとノートパソコンを使う男の子(提供 photoAC)








3 「地頭」を定義する




ところで,ここで再確認しておきたいことがあります。それは当塾が使用する「地頭」の定義です。一例として,辞書的には,次のような記述を見出すことができます。









じ‐あたま〔ヂ‐〕【地頭】の意味
1大学などでの教育で与えられたのでない,その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく,論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。「地頭がいい」「地頭を鍛える」


goo辞書 出典:デジタル大辞泉(小学館),「2」の意味については省略しました。








しかし,当塾は「その人本来の頭のよさ」という概念を採りません。なぜならば,このように表現すると,生来の「頭のよさ」を連想し,「鍛」える必要性が認められないからです。――しかし,引用文中の下線部には,十分に「鍛」える必要性を読み取ることができます。――




では,当塾の「地頭」の定義とは?









豊富な知識量を基盤とした,


〇 問題解決能力(自らの身辺に生起する問題を発見し,その解決方法を自分の頭で思考・判断し,実践〔表現〕できる能力)
  ◎ 問題状況を多視点から捉え,分析できる能力
  ◎(社会的)コンテクストに応じた情報を収集し,知識化した情報を活用(論理的思考)・表現(コミュニケーション)できる能力(インプットからアウトプットできる能力)
  ◎豊かな発想力・想像力


〇 「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」を継続できる能力


〇 豊かな人間関係形成能力(乳幼児から大人に至るまでの「人(の存在)」を心から愛する豊かな感性)
  ◎他者を多視点から捉える能力


〇 他者と新しい文化を〈共創造(co-creation)〉できる能力


「「地頭(じあたま)」の定義」(当塾公式ホームページ)








つまり,一言で述べるならば,




総合的な人間力




ということになります。




当塾は,巷間に「地頭」を「12歳頃までに成熟する先天的な知能」と捉え,「地頭」そのものを鍛えられないものと考える向きがあることを重々承知いたしております。しかしながら,現代の脳科学者が「地頭力」という概念(言表)を使用するご時世なのです。




確かに当塾の「定義」は「豊かな感性」(情緒)までも含むものであり,一見,支離滅裂の誹りを免れないものだろうと拝察します。しかし,意識が言語に先立つのではなく,言語が意識に先立つと考えれば,――感性も言語世界の住人であり,脳内の言語作用に依拠するものならば,――「地頭(力)」に「感性」(情緒)が含有されていても少しもおかしくはないと言えるのです。









(前略)話し手の意思(意識)も聞き手の意思(意識)も,言語世界(言語共同体)の内部に存在しているということである。すなわち,言語を離れては人間の意思(意識)は存在しないということである。つまり,人間の意識なるものは言語と無関係に独立しているのではなく,つねにすでに言語的なものとして,言語に規定されて存在しているにすぎないということである。


長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ――知の構築のために――』,山川出版社,p.107,下線は筆者が施しました(以下,同様)。









それ(筆者注:読む,書く,話す,聞くが全教科の中心ということ)以上に重大なのは,国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。


藤原正彦(2016.4):『祖国とは国語』[キンドル版],国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com…b









人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすことはない,といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。


前掲書b:国語教育絶対論,(二)国語はすべての知的活動の基礎である,検索元 amazon.com









高次の情緒とは何か。それは生得的にある情緒ではなく,教育により育まれ磨かれる情緒と言ってもよい。たとえば自らの悲しみを悲しむのは原初的であるが,他人の悲しみを悲しむ,というのは高次の情緒である。


前掲書b:国語教育絶対論,(四)国語は情緒を培う,検索元 amazon.com








4 「鍛地頭(「地頭」を「鍛」える)」とは




我々は「間主観的拘束性※6により「自らが生きた時代や所属した共同体の精神及び認識(イデオロギー・共同主観)」(=時代及び各種共同体言説)に,固有の生活背景に起因する「個性化された認識」を加味した「語り」」※ⅱを語る存在です。その「語り」の基盤となる時代の推移は言語の位相を生じ,各種共同体は固有の言説を醸成します。つまり,「時代」及び「各種共同体」という枠組み,すなわち「構造」は我々人間の意識(やものの見方・考え方)を構造化します。その「構造」こそ「文化・文明」であり,それは「言語」に他なりません。このように考えれば,我々人間は「言語(世界)」の枠組みの中で,「言語に規定され」ながらものを考え,感じているのです。要するに,「意識」「感性」「情緒」は「言語」を離れて存在しているのではなく,「 すでに言語的なもの(大胆に表現するならば,「言語≒意識・感性・情緒」)として 」存在していると考えることができるのです。




だからこそ,(高次の)「豊かな感性」を磨くためには,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えることが最重要であるということになります。




このことは,「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」の育成においても同様に述べることができるわけです。――「思考すること」「判断すること」「表現すること」(「俯瞰すること」)は全て「言語」に依拠している(大胆に表現するならば,「言語≒「思考すること・判断すること・表現すること(・俯瞰すること)」)のですから。――




中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チームは,「言語―思考・感性・情緒等」関係を「資質・能力の育成―言語能力」関係の中で捉えており,「整理メモ」の体裁でインターネット上にアップしていますので,是非参考にしていただきたいと思います。かなり長い引用となりますが,肝心な事柄ですので,次にその一部を引用しておきます。









2.資質・能力の育成と言語能力との関係について


・子供は,乳幼児期から身近な人との関わりや生活の中で言語を獲得していき,発達段階に応じた適切な環境の中で,言語を通じて新たな情報を得たり,思考・判断・表現をしたり,他者と関わったりする力を獲得していく。このように,言語は,子供たちの学習や生涯にわたる生活の中で,極めて重要な役割を果たしている
・言語能力は,国語科や外国語科のみならず,全ての教科等における学習の基盤となるものである。例えば,「論点整理」が提示した資質・能力の三つの柱に照らせば,以下のように考えることができる。


1 個別の知識・技能
・学習内容は,多くが言語を用いて表現されており,新たな知識の獲得は基本的に言語を通じてなされている。
言語を通じて,知識と知識の間のつながりを捉えて構造化することが,生涯にわたって活用できる概念の理解につながる。
・具体的な体験が必要となる技能についても,その熟達のために必要な要点等は,言語を用いて伝えられ理解されることも多い。


2 思考力・判断力・表現力等
・教科等の本質に根ざしたものの見方や考え方の獲得は,各教科固有の学びのプロセスを通じて行われる。このプロセスにおいては,情報を読み取って吟味したり,既存の知識と関連付けながら自分の考えを構築したり,目的に応じて表現したりすることになるが,いずれにおいても言語を通じて行われる。


3 学びに向かう力,人間性等
・子供自身が,自分の心理を意識し統制していく力や,自らの思考のプロセスを客観的に捉える力(いわゆる「メタ認知」)の獲得は,心理や思考のプロセスの言語化を通じて行われる。
言語を通じて他者とコミュニケーションをとり,相互の関係を築いていくことにより,思いやりや協調性などを育むことができる。
言語は,全ての教科等における資質・能力の育成や学習の基盤として重要な役割を果たしており,言語能力の向上は,学校における学びの質や,教育課程全体における資質・能力の育成の在り方を左右する,重要な課題として受けとめる必要がある。


中央教育審議会 > 初等中等教育分科会 > 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チーム > 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チーム(第3回) 配付資料 > 資料5 言語能力について(整理メモ)平成28年1月13日(水曜日)10時00分~12時00分 …c








因みに,引用文中の「いわゆる「メタ認知」」は当塾の基本的な実践項目である「〈相対化〉」の一側面を意味しており,この営為も「言語を通じて」行われるものであることが分かります。また,当塾の基本理念である〈恕(=思いやり)〉も「言語を通じ」た「他者とのコミュニケーション」により育まれるものであることを確認しておかなければなりません。









コルク性の台の上の巻紙に大書された「言葉の力」
言葉の力(提供 photoAC)








ところで,かつて私は「青天の霹靂 ― 一人ひとりが輝く育児 ― 〔第1回〕」(小桝雅典,当塾公式ホームページ,2018.5.14)で,次のように指摘したことがあります。









教育のみならず,
人の営為はすべて〈言葉〉で紡がれています。
誰しも,脳裏でものを考えるときには,
〈言葉〉で考えているわけです。


他者の「言葉」を聴き,自らの脳裏のスクリーンに描かれるイメージも,
〈言葉〉によって再構築されているわけです。


だから,脳裏に蓄積される〈言葉〉の数が多いほど,
深く・幅広くものを考えることができるのです。
極端な例ですが,3つの〈言葉〉しか持たない脳よりも,
100個の〈言葉〉を持つ脳の方が,考えが深く・広いはずなのです。
勿論,知としての〈言葉〉を活用・運用できての話ですが。


育児も〈言葉〉で織りなす尊い営為だと思います。
育児にかかわる,特に保護者が〈言葉〉豊かに,優しく,
乳幼児(こども)に表情豊かに語りかける。


乳幼児(こども)は,その保護者の〈言葉〉表情を感知する。


万一,保護者の〈言葉〉がいわゆるボキャ貧だったら……
仮に,表現(パフォーマンス)力に不足していたら……









これは「ボキャ貧」の「保護者」を揶揄する目的の文章ではありません。要するに,私はこの文章によって,〈言語能力・言語運用能力を鍛錬する重要性〉を指摘しようとしたのです。自己に係る〈言語能力・言語運用能力の鍛錬〉は自己存在の枠組みで収まることなく,自らのこどもを含める他者の〈言語能力・言語運用能力〉に影響を及ぼします。









まだ研究途上の「ミラーニューロン」。


人の場合,新生児から生後12か月頃までに発達すると考えられているようですね。


・他人の動作を見て,自分のことのように共感する。
・他人の意図を理解して,次の行動を予測する。
・言語を獲得する。


などの機能があるとか。


仮に,こうした研究の結果が〈真〉であるならば,
乳児の教育は重要な意味を持ってくると考えられますよね。


「朝,しんどくても,保護者が笑顔でいる効果とは? ―「礼」? 「ミラーニューロン」?―」(小桝雅典,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2018.5.23)









ミラー‐ニューロン(mirror neuron)
他者のある動作を見たとき,自分もその動作をしているかのように反応する神経細胞。霊長類のマカク属で発見され,ヒトにおいても同様の脳神経活動が見られる。他者の模倣を通じ,他者の意図の理解や言語の獲得に役立ち,共感などと深い関わりがあると考えられている。


コトバンク:ミラーニューロン(英語表記)mirror neuron,デジタル大辞泉の解説








一人ひとりの人間の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉が鍛えられれば,それぞれが帰属する各種共同体の〈言語能力〉と〈言語運用能力〉は高まり,延いては,それはその時代に住まう各種共同体の「問題解決能力」,「思考力・判断力・表現力(・俯瞰力)」及びそれらを「継続する能力」並びに「豊かな感性(人間関係形成能力)」を高め,高次の文化・文明を紡ぐことにつながっていくのです。




事は重大です。




そこで,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の定義を確認しておきましょう。




まず,〈言語能力〉について,当塾の「地頭」の定義と通底する概念が,先程ご紹介した中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会 言語能力の向上に関する特別チームによる「整理メモ」にまとめられており(平成28年1月13日),――確定稿ではないことを念押ししておきます。――また,『大辞林 第三版』の解説と読み合わせると,より良く理解できるのではないかと思いますので,それらを引用しておきます。









1.言語能力について


言語の果たす役割は,これまでの各種会議等の議論の成果を踏まえ,以下の三つの側面から捉えることができる。
1 創造的思考(とそれを支える論理的思考)の側面
2 感性・情緒の側面
3 他者とのコミュニケーションの側面


前掲資料c









げんごのうりょく【言語能力】
ある言語の話し手が母語についてもっている言語構成能力や知識。「言語運用」と対比される。チョムスキーの用語。


コトバンク:言語能力(読み)げんごのうりょく 出典 三省堂








一瞥すると,「創造的思考(とそれを支える論理的思考)」と「他者とのコミュニケーション」は当塾の「地頭」の定義における「問題解決能力」の領域に整理されており,「感性・情緒」は「豊かな人間関係形成能力」に整理されていることが分かります。また,「言語能力」として「感性・情緒」を採り上げていることは,先程来,指摘してきているように,「言語―意識(感性・情緒)」関係を「意識が言語に先立つのではなく,言語が意識に先立つ」とする同一の思考の台座で思考していると言って過言ではないでしょう。――ソシュールやウィトゲンシュタインが提唱した言語観が構成した20世紀的な「知」の枠組みから考えれば,当たり前のことですが。――さらに,引用文には「言語には,具体的な発声や文字による言語活動である一般的な言語(外言語)の機能のほか,音声や文字を伴わない,思考や概念,それらの体系の獲得・操作を行う内なる言語(内言語)の機能があり,三つの側面のいずれにおいても,これらの機能が働いていることに留意する必要がある。」との脚注が付されており,〈言語運用〉との比較の側面からも特筆すべき内容であることを指摘しておきたいと思います。




続いて,〈言語運用能力〉の定義です。『大辞林 第三版』の解説(コトバンク:言語運用(読み)げんごうんよう 出典 三省堂)の一部を拝借すれば,「ある言語の話し手が母語の知識(言語能力)を時間軸に沿って用いる能力」,「実際の言語行動を可能とする能力」ということができます。




これで,「言語能力」と「言語運用能力」との連関が明らかになるはずです。語弊を恐れず,端折って,端折って,平易に述べれば,言語構成能力や知識(言語能力)を用いる能力が「言語運用能力」ということです。また,「言語運用能力」には,「言語」を「運用」する「意欲・関心・態度」を含めて考えるべきだとも思います。




ただ,ここで新たな疑問として,「言語運用能力」と「コミュニケーション能力」との相違が浮上してくると思いますので,分かりやすい解説をご紹介しておきます。









言語運用能力とコミュニケーション能力との違いは,前者は文字通り言語の運用に焦点を当てたもの,後者はそれに加えて,ジェスチャーや顔の表情,アイコンタクトといった非言語的要素(非言語的要素による意思疎通を非言語コミュニケーション,あるいはノンバーバルコミュニケーションといいます。)やコミュニケーション前後の文脈に対する理解や配慮などまで含まれている,という点に違いがあります。
言語運用能力は,さらに語彙レベル,文レベル,談話レベルの運用能力に分けることができます。


篠﨑大司(SHINOZAKI DAISHI):キーワード解説「け」 言語運用能力(げんごうんようのうりょく),日本語教師篠崎大司研究室








このように考えて来ますと,当塾が定義する「地頭」を「鍛」えるには,(乳)幼児期からの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の鍛錬が重要であり,こどもたちにかかわる保護者を含めた周囲の大人たちの存在は,換言すれば,周囲の大人たちの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉はこどもたちの成長に多大な影響を与えるという結論に至るのです。したがって,繰り返しますが,事は重大なのです。――事の重大さの詳細については,別の機会に述べることにしますが,だから,私には現代の「ブログ言説」が気になって仕方がないのです。そこで,当塾のシリーズ物ブログ「The パクるな!!」の中で,「ブログ言説」の〈相対化〉を試みようとしているのです。(頁末の「関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ」をご覧ください。)――




要するに,「地頭」を「鍛」える(=「鍛地頭」)とは,乳幼児から大人までの〈言語能力〉と〈言語運用能力〉を鍛えることなのです。また,それは「創造的思考(とそれを支える論理的思考)力」,「感性・情緒」及び「他者とのコミュニケーション能力(〈対話力〉)」を育てることでもあるのです。




それが当塾を「鍛地頭-tanjito-」と命名した所以なのです。








  令和元年6月1日(土)








塾長 小桝 雅典 








【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】





















※ⅰ 文部科学省は「探究的な学習」として,この学習過程を次のように整理している。
 ①【課題の設定】 体験活動などを通して,課題を設定し課題意識をもつ
 ②【情報の収集】 必要な情報を取り出したり収集したりする
 ③【整理・分析】 収集した情報を,整理したり分析したりして思考する
 ④【まとめ・表現】気付きや発見,自分の考えなどをまとめ,判断し,表現する
 
[参考]
  〇 文部科学省(平成30年7月):『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 総合的な探究の時間編』
  〇 文部科学省(平成25年7月):『今、求められる力を高める総合的な学習の時間の展開(高等学校編) 総合的な学習の時間を核とした課題発見・解決能力,論理的思考力,コミュニケーション能力等向上に関する指導資料』http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/sougou/1338359.htm




※ⅱ 「語りの構造を踏まえた読みの授業に関する研究―古文の授業構築を中心に―」(小桝雅典,1998(平成10)年度 広島大学大学院教育学研究科 教科教育科学専攻 国語教育学 修士論文,※6 「相互主観性」とも言う。「フッサールの用語。複数の主観の間で共通に成り立つこと。事物などの客観性を基礎づけるものとされる。」(『大辞泉』 松村明監修 小学館 一九九五) 「共同主観」も同概念を示すことばである。)








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posted by tanjito at 19:01| 広島 ☁| Comment(0) | 塾長の述懐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする