2019年01月21日

育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へー〔第1回〕




警告!!

本ブログには「鍛地頭-
tanjito-」による教育論等が展開されております。
したがって,無断で当塾の教育論等を使用・援用・引用等されることを固く禁じます。
このような警告文を発すること自体が本意ではなく,誠に遺憾ですが,再三に及ぶお願いにもかかわらず,(営利目的等を含め,)無断で当塾の考え方や実践を盗用されている団体の存在が分かっています。以降,法的手段を視野に対処させていただきますので,そのようなお互いにとって不幸な事態が生じませんように,予め,重ねて御忠告申し上げます。




「鍛地頭-tanjito-」塾長 小桝雅典







[Masan]が紹介する本日テーマ「現代育児言説を〈相対化〉するーポストモダンの時代からトランスモダンの時代へー」





[Masan]が紹介した今回のブログのテーマと主旨を補足する[Sayosan]




0 プロローグ




「育児・療育・教育の世界は,依然としてポストモダニズムのままなのか? いや,そんなことはない。」と,一人ヤキモキしながら,日々,思索を巡らせています。




「生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」の塾長,小桝雅典です。




(1) ブログ作成の目的




今回のブログを作成するに及んで,三つの目的がありました。
一つは,前回,副塾長の住本小夜子が綴った「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」? ―信じるという脅迫―」の内容を相互補完(補足)することです。
残りの二つは,現代の育児言説を〈相対化〉することにより,「こどもが〈不在〉でありながら,「育児」を騙(かた)る行為」に警鐘を鳴らすこととまだ試行錯誤(思考錯誤かも?)中の「「鍛地頭-tanjito-」教育論」を世に問うことです。




二つ目の目的の「「鍛地頭-tanjito-」教育論」に至っては,世に問うに時期尚早の感は否めません。しかし,性急な解決を要する問題がポストモダンの終焉を迎えた現代の地平に歴然と顕在しています。義憤も相俟って,私は〈解決〉に乗り出さなければならないとする衝動的な〈正義感〉に駆られたのです。ただ,正直なところ,「性急な解決を要する問題」が私個人の幻想であって欲しいと願う気持ちも多少なりともあったことは事実です。しかも,〈解決〉に乗り出す姿勢こそがポストモダニズムの体現なのではないのかと考える内的パラドックスにも苛まれていました。それでも,鬱積した瞋恚(しんい)が勝りました。




(2) 「手抜き育児」の地平




「性急な解決を要する問題」とは,本ブログの場合,現代を席巻する(ように思える)「こども〈不在〉の手抜き育児言説」を指します。端的に述べれば,育児は保護者のためにだけあるとする言説です。平易に換言するならば,「こどものためではなく,保護者(この言説が対象とするのはほぼ母親)のためだけを滔々と騙(かた)る育児言説があまりにも権威性を持って跋扈(ばっこ)しているのではないのか? 」ということです。





塾長の難しい論述をわかりやすく説明しようとする[Sayosan]




私の焦燥感を伴う憤怒は,次の思いに起因しています。




「こうした育児言説に回収され続ける限り,その育児言説に回収された保護者によって育てられたこどもは,近未来を含めた将来,ぐちゃぐちゃになってしまう!!」(因みに,これとは別に,「脳科学においても,まずは3~4才までが大事な発達段階であると言うのに!!」との思いもあります。)




なぜこのように断言できるのか?




それは,高等学校の現場だけでも約9,000人※1の生徒にふれあってきた元教師の実践,経験と29年間掛かって培ってきた独自の理論があるからです。教育行政(生徒指導担当時)にいた折には,小学校や中学校にも指導に入り,数多くのこどもたちや先生方とふれあってきているのです。主観的な思いを吐露するようですが,通常,論理的に物事を捉えようと努力をしている私自身が,こうした思いをブログに〈ありのまま〉にぶつけなければならないほどに,育児の現場は危機的状況にあるのです。




【「手抜き育児」の例】





  • 「こどもの〈ありのまま〉」についての捉え方を完璧にはき違えた育児

  • こどもの〈在り方〉を一個人の大人の価値観(主観)だけで決めつけて行う育児

  • 生徒指導(しつけ)上,(発達段階に合わせ,人道的にも)必ず厳しい指導をしなければならないこどもの言動を,没個性にするとか,伸び伸びと育てるためとか言って放任する育児

  • 最近,特に散見される「自己肯定感」の解釈を誤ったまま,その概念を探究することなく,自らの思い込みでしつけ(?)する育児

  • 保護者の自己保身から,早期に療育を必要とするこどもを放置した育児

  • こどもへの声掛けなどにおいて,ことばの持つ〈職能(働き)〉や重みを理解していない育児

  • 理論と実践とが矛盾・乖離した育児(の教え)

  • 保護者だけの「楽」/営利目的のため,「手抜き育児」を賞賛し,それに権威性を与えようとする育児(の教え)(≒育児言説)




など




就学前の発達段階で,上述した「手抜き育児」により育てられ,集団化したこどもを保育・指導する保育士さん,幼稚園・小学校の先生方(延いては,中学校・高等学校・特別支援学校・大学等の先生方)の苦労は如何ばかりのものか!! これらの教育空間には明確に〈公的な責任(学校教育)/私的な無責任(手抜き育児)〉の二項対立の図式が成立(社会構造化しようと)しているのです。





似非子育て(論)に憤然とする[Masan]




(3) 「手抜き育児」への警鐘




ア 〈庇護〉されたいこどもたち




このように綴ってくると,「何を偉そうに述べているのだ!!」という声が聞こえてきそうです。しかし,私の指摘(警鐘)は本当に誤っているのでしょうか? 私は決してそうは思いません。




私は仕事柄,保護者(親)からの児童虐待を受けたこどもや少年鑑別所・少年院・少女苑・少年刑務所(以下,「少年鑑別所等」)に入所したこどもたちともふれあってきました。




そして,そうしたこどもたちとの〈対話〉を進める度,漸次,強まってきた思いがあり,今ではそれは一つの信念と化しました。ただし,お断りしておきますが,私がふれあってきた上述の少年・少女は5~6年前までのこどもたちであったし,飽くまでも私がふれあってきたこどもたちなのです。




○「親の愛が欲しかった。
○「(保護者(親)は,自分が)悪いことをしても叱るような親(保護者)ではなかった。」
○「(自分が悪いことをした時,保護者(親)に)真剣に叱って欲しかった。」
○「見捨てられたと思った(思っている)。」
○「(保護者以外の)他人(教師を含む)でも愛情を持って本気で叱ってくれる人とそうでない人は,すぐに分かる。」
○「人(教師)を信じられない。だから,淋しかった。だから,悪いことを繰り返した。だから,いつしか,自分の周りには,そんな淋しい思いをしている友達が集まっていた。」




など。




私がふれあってきた,このようなこどもたちの殆どが,それでも保護者(親)を庇(かば)うのです。私にはその言葉が信じられませんでした。「(保護者(親)によって,)こんなに辛い目に遭わされているのに…。」




○「でも,先生(私のこと),(保護者(親)は,)悪い人ではないんよ。家の中でもいろいろなことがあったけんね…(保護者(親)も)大変じゃったんよ。」
○「(保護者(親)も)人じゃけん。」
○「お母さんも大変じゃったんよ。お父さんからのDVがあったけん。」




など。




勿論,中には保護者(親)のことを「大嫌いだ!! 顔を見たくない!!」というこどももいました(その〈真意〉はさて置き)。しかし,私が〈対話〉を持った多くのそうしたこどもたちは,




「(保護者(親)のことを)好きよ。」




と呟いたのです。保護者(親)に対して,「〈好き〉と思える状態でいて欲しい。」「そうした状態になって欲しい。」,また,保護者(親)を「〈好き〉でいたい。」という儚く切ない期待と願望を込めて。




こうした心情は,何も児童虐待を受けたこどもや少年鑑別所等を経験したこども特有のものではありません。偶々,児童虐待や少年鑑別所等の更生の空間が,彼ら/彼女らの飾り気のない言葉を切り取って(私に)見せただけで,全てのこどもに共通の〈真情〉なのです。




ここまで述べただけでもお解かりのように,上述したこどもに共通の〈真情〉を,大人の都合(価値観,エゴイズム,損得勘定等)だけで無視することなどできはしないのです。(しかも,そうした「大人の都合」を自らの営利目的で煽ってもいけないのです。)それは保護者(親)としてと述べるよりも,〈人〉として。また,敢えて,歯に衣着せぬ直截的な物言いをすれば,〈こどもを設けた保護者(親)の責任〉として。




確かに,人間として存在する価値(尊厳)は,こどもと大人と等価的であることには相違ありません。教えるという行為を一つ採っても,こどもが大人に教えることだってあるでしょう。しかしながら,大人が先に生まれ,こどもへと〈命の絆〉をつないだ分,大人がこどもに教え,〈守る〉ことが多いのも事実です。




先述した「庇(う)」という漢字を想起してください。この漢字は元来「おおう(=蔽)」の意を有します。そこから派生した意味は「おおいまもる,たよる」であり,「かげ・おかげ・たすけ」などの意味もあります。〔参考:『角川 新字源 改訂版』(小川環樹・西田太一郎・赤塚忠編,角川書店,2004.1,p.327〕「庇護」などの熟語もありますよね。




挙例した「庇う」を再見すると,この場合,児童虐待や少年鑑別所等を経験したこどもたちが保護者(親)を〈庇っている(=おおいまもっている)〉のです。理屈抜きで,真面(まとも)な状態と言えますか? とても皮肉なことに,このような庇護にも値しない保護者(親)を〈庇う〉こどもの〈真情〉は,私には〈自然のこと〉と思えてしまうのです。




こどもというものは,元来,保護者(親)に〈庇護〉されたい(=〈おおいまもられたい〉)存在なのです。それがこどもの〈真情〉です。こどもは,保護者(親)がどの程度,どのようにして自らを〈庇護〉してくれるのかを心の眼差しでもって凝(じっ)と〈見つめている〉のです。




児童虐待や少年鑑別所等を経験したこどもたちが庇護にも値しない保護者(親)を〈庇う〉のは,こどもとしての〈真情〉の,ある意味,反動形成と考えられるのです。保護者(親)に〈庇護〉されたいのに,保護者(親)は庇護してくれない。だから,こども自らが保護者(親)を〈庇護〉してしまっているのです。




「手抜き育児」,すなわち,「こどもが〈不在〉でありながら,「育児」を騙る行為(=こどものこうした〈真情〉を捉えず/捉えようとせず,保護者(親)だけが快楽に浸り,プラス(利)を貪る,保護者(親)だけが良ければそれで良いとする育児の名に値しない行為)」が,一体,「児(=こども)」の何を「育」むのでしょうか? 理屈(熟語)から考えても,「育児」の「児」のない「育(み)」は,既に「育児」ではないのです。




イ 「楽な育児」の二面性




昨今,巷間の育児書・ブログ等で散見されるようになったステレオタイプのフレーズ(一例)です。




「(育児において,)お母さんが楽にならないといけないのです。」…a




「楽な育児」の言表は相反する二面性を持った言説を構築しています。




その意味において,上述の(a)は,一面,得心のいく言表と言えます。しかし,反面,上述した「手抜き育児」(=「こども〈不在〉でありながら,「育児」と騙る行為」)言説を醸成する言表でもあり,得心するわけにはいきません。アリストテレス風に言えば,一種のアポリアです。




得心のいく場合については,副塾長の住本が認(したた)めた前回のブログに,理解しやすい事例が挙例してありますので,その箇所を引用しておきます。





例えば,家事の負担を減らすために圧力鍋を使った調理をしたのならば,調理時間の短縮ができます。家事に追われる時間が少し減ったことに満足して終わることなく,時間短縮で得た心の余裕を,こどもと接する時間に活用していただきたいと思うのです。


「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?―信じるという脅迫―」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.10)




このように,「〈こどものため〉に,保護者が心に余裕を持ち,晴れやかな心で〈こども〉と接する」(住本前掲ブログ)のが「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)の一面であって,「大人が楽(らく)になったらそこで完結し」(同上)てしまう「育児」を騙る行為を〈育児〉とは呼ばないのです。これは当塾「鍛地頭-tanjito-」が考える定義でもあります。「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)には,厳然と〈こども〉が〈存在〉しているのです。したがって,「保護者が心に余裕を持」つために講じる具体的な手立ては,この場合,〈こども〉の〈存在〉を尊重する保護者(親)主体に任されることになります。




このように考えてくると,得心のいかない場合は,「楽(らく)な育児」(アポリアの後者)に〈こども〉が〈存在〉していないということになります。上記に引用したブログの中で,住本が指摘していますが,「〈こども〉の存在があるからこそ,育児(小桝注:「育」+「児(=こども)」)は成り立つのであって,大人を対象とする育児など存在し」ない(小桝注:「育」+「大人」とは言わない)のです。つまり,繰り返すように,「こどもが〈不在〉でありながら,「育児」を騙る行為」は「大人が楽(らく)になったらそこで完結し」てしまう行為を指し,延いては,これはこどもに〈愛情〉の〈手〉を差し伸べることのない「〈手〉抜きの育児」と言えるのです。




さらに,事態は深刻です。




先述したステレオタイプ式の言表(a)を再見してみましょう。




「(育児において,)お母さんが楽にならないといけないのです。」…a




実践家・指導者の中には,こうした言表を用い,〈こども〉の〈存在〉を念頭に置いて,〈こどものため〉に,保護者(親)が「楽(らく)な育児」をすべきだと説かれている方もおいでのことでしょう。それは,当ブログではアポリアの前者に当たる「〈こどものため〉に,保護者が心に余裕を持ち,晴れやかな心で〈こども〉と接する楽(らく)な育児」に相当するのだろうと考えますから,表面上,何も問題がないように見えます。




しかし,そこに陥穽(かんせい)があるのです。




この(a)と似た種類の数多くの言表がテクストとして独り歩きするとき,すなわち,「こどものために」という言表を伴わないで,例えば,「お母さんが楽にならないといけないのです」だけの言表が長い時間軸の中で,数多くの人に多用され続けると,巷間にどのような状況が展開するのか?




漸次,これらの言表は「お母さん=楽/こども」に収斂する言説を生成してしまうのです。つまり,「(育児において,)お母さんは手抜きをするようにならないといけないのです。」→「(育児において,)お母さんは,お母さんの自己欲求を満たすようにならないといけないのです。」→「(育児において,)お母さんが自己欲求を満たすのは当たり前です。」→「(育児において,)お母さんだけが自己欲求を満たしてい良いのです。」→「お母さん本位の育児で良いのです。(=お母さんの欲求を満たせば良いのです。こどもではないのです。)」と。




そして,やがて〈こども〉の姿は隴化し,消滅していきます。
これが,〈愛情〉の〈手〉が届かなくなった〈手抜き育児〉言説の正体です。




私は,こうした保護者(親)が蔓延した世界を想像したくはありません。
さらに,万一,この類の言表が生成する〈手抜き育児〉言説に気づきながら,自らの営利目的のために,それらを多用している実践家・指導者がおられるとするならば,それは非人道的な大罪であるとしか言い様がありません。なぜならば,〈こども〉や〈保護者(親)〉は商売のためのツールではないからです。




ウ 「楽(たの)しい育児」の「楽しさ」とは




「楽(たの)しい育児」は決して「愉(たの)しい育児」であってはなりません。その理由を字義から確認してみます。確認の典拠は前掲の漢和辞典です。




「楽」には,「よろこばしい。やすらか。豊か。愛する。」などの意味があります(p.513)。一方,「愉」には,「心が和らぐ。おだやかな顔色。なまける。おろそかにする。」などの意味があります(p.383)。




先に,後者の「愉」に注目すると,そこには〈手抜き育児〉の典型が表象されていることに気づきます。保護者(親)の「心が和らぐ育児」・「おだやかな顔色になる育児」(ここまでは良いのですが)は,時が経つにつれ,「なまける育児」・「おろそかにする育児」に変貌していくのです。何を「なまけ」,「おろそかにする」のか? それは,既に言わずもがな,保護者(親)が〈愛情〉を〈こども〉に届ける行為なのです。「〈こども〉への〈愛情〉をなまける育児」,「〈こども〉への〈愛情〉をおろそかにする育児」。これは,まさに〈手抜き育児〉に他なりません。




したがって,前述したこども〈不在〉(保護者(親)のためだけ)の「楽(らく)な育児」(アポリアの後者)は「愉(たの)しい育児」に収斂していきます。




一方,「楽(たの)しい育児」(アポリアの前者)は,「〈こども〉を愛し,育児そのものを愛する育児」が「よろこばしい育児」,「(心)やすらかな育児」,「(〈こども〉も,保護者も,そして家族も〈愛情〉豊かな育児」に帰結していくことを暗示しているように読めるのです。




ただし,注意しておかなければならないことがあります。




例えば,療育の一環として,保護者(親)が製作した「スケジュール表」(参考:「自閉症スペクトラムの息子のやる気を引き出すスケジュール管理」(住本小夜子,「鍛地頭-tanjito-」,2018.9.17))をこどもが嬉しそうに使っている光景を見て,その保護者(親)が「こどもが楽しい(よろこばしい)と思ってくれている。だから,私も楽しい(よろこばしい)。」と感じても,それはここで述べる「楽(たの)しい育児」(アポリアの前者)ではないということです。




保護者(親)が捉えるこどもの嬉しそうな表情(様子)は,飽くまでもその保護者(親)のフィルター(=ものの見方や考え方)を通して捉えた〈こどもの嬉しそうな表情(様子)〉であって,《こどもそのものの嬉しそうな表情(様子)》ではないのです。つまり,少し一面的な例ですが,換言すれば,保護者(親)が「こどもが嬉しがっている」と捉えただけで,〈こども〉は〈本当はそのように思っていない〉ことだってあるのです。




では,なぜその保護者(親)は「こどもが嬉しがっている」と捉えるのか?




「鍛地頭-tanjito-」(住本と私)は,保護者(親)がこどものためにと思い,スケジュール表を製作したその行為に,〈こどもからの見返り〉を期待しているからだと考えるのです。〈こどもからの見返り〉への期待が〈こどもそのものの嬉しそうな表情(様子)〉に見誤らせたということです。




これでは,保護者(親)から〈こども〉への一方的な愛情のお仕着せであり,「(〈こども〉も,保護者も,(そして家族も)〈愛情〉豊かな育児」という双方向的な〈愛情〉の関係は成立しません。すなわち,そのことは「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)ではないことを意味します。




そうであるならば,双方向的な〈愛情〉関係を構築するには,どのようにすべきであると考えるのか?




その解答は明確です。保護者(親)が〈こどもからの見返り〉を期待しないことです。その上で,「楽(らく)な育児」(アポリアの前者)を目指すのです。「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」です。それはそうです。同じ「楽」の文字が遣ってあるのですから。「楽(らく)な育児」を目指すことは,「楽(たの)しい育児」を目指すことです。要するに,〈こども〉にとっても,〈保護者(親)〉にとっても「楽で楽しい育児」でなければならないということなのです。




このことを《相対化》してみます。
すると,そこには,こどもと大人とを二項対立の図式で見る見方ではない見方があることに気づくはずです。「こども中心の育児でないといけない!」とか,「保護者(親,特に母親)中心の育児でないといけない!」とか,つまり,どちらが育児(敷衍すれば,療育・教育)の中心となるべきなのかに決着を付けようとする見方(態度)ではないのです。




小さな物語※2が群雄割拠するポストモダンは終焉を迎えました。その終焉期にあって,シニカルに表現するならば,〈庇う〉対象は大人(保護者(親))なのかもしれません。しかし,これまで述べてきたことからもお解りのように,育児の《中心》は《こども》でもあるし,《保護者(親)》でもあるわけです。だからこそ,私は現代の「育児言説」を,将又,ポストモダンを《相対化》する一元論的トランスモダンの育児(・療育・教育)を主張するわけなのです。




一元論的トランスモダンの育児において,《中心》は《こども》であり,《保護者(親)》なのです。




この辺りのもう少し詳しい説明は,次回のブログに譲ることにします。








※1 直接ふれあってきた生徒だけではなく,私の講話を何度も聴いた生徒や廊下でのすれ違いにあいさつ程度だけを交わした生徒などをも含みます。ただし,部活動(サッカー部の顧問でした)でふれあった他校の生徒等を含めれば,もっと数は跳ね上がります。(廊下ですれ違っただけでも,私はその生徒を〈見て〉いたのです。)




※2 フランスの哲学者,リオタールの言葉。「コトバンク」の「リオタール」の項より,一部を引用し,説明に代えます。





リオタール(Jean-François Lyotard)
りおたーる
Jean-Franois Lyotard
(1924―1998)


『リビドー経済』(1974)では、さらにこの考えを推し進め、現実のすべてを「リビドー身体」としてとらえ、世界を考察する。この書は、ポスト構造主義的思考への転回点を示し、ドルーズの「ノマドロジー」(遊牧論)を誘導する。リオタールは、現代は「大きな物語」grand recitが消え、歴史の終焉(しゅうえん)に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。
 こうした「言説の多様性」の主張は、『ポスト・モダンの条件』(1979)で、「言語ゲーム」という、リオタールのキーワードとなって表れる。ウィットゲンシュタインの「ゲームの理論」に由来するこの主張によれば、多様化した言説は、テクノロジーの発達により、コンピュータを通して「情報ゲーム」となるだろうと予測している。



リオタール(読み)りおたーる(英語表記)Jean-François Lyotard
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
※ 下線は小桝が施しました。







4本の直方体それぞれの一面に一文字ずつ書かれた「LOVE」の文字





次章の役割について補足説明を行う[Sayosan]




1 〔解説〕ブログ「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?」の主旨について




当塾のブログは,ある理念※3に基づき,副塾長の住本小夜子と私とで,採り上げるテーマについて何度かの議論を行い,5~7日,長ければ14日間ほど費やして作成されます。




塾長:
このことをお聞きになり,
「それにしては,お寒い内容だなあ。」と
お嘲笑(わら)いになられる方がおありのことと拝察いたします。
それは全て私どもの至らなさの極み。
今後,鋭意研究を重ね,精進して参りたいと思います。



そこで,上述したような経緯から,本章では副塾長の住本が認(したた)めた前回のブログ「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?  ― 信じるという脅迫―」の第4章「信じるという脅迫」(後半部=赤字のブロック)について,私が解説を付けてみようと思うのです。




その理由は3点あります。





  • 第4章の後半部(赤字のブロック)には難解な表現がある一方,当該箇所は当該ブログの主旨でもある。

  • その主旨は,当塾「鍛地頭-tanjito-」において,教育観の根本を担っている。

  • したがって,後半部(赤字のブロック)の内容に解説を付けることが,本ブログのテーマ「(育児・療育・教育に視座を据えた)ポストモダンの時代から一元論的トランスモダンの時代へ」についての読者の理解を促進することになる。





[Masan]による解説の前説




それでは,早速,最初のブロックからです。まずは,引用です。





自己のフィルターを通して捉えた他者は〈自己が形象化した他者〉であり,一般に,これを「他者理解」と呼ぶのですが,それは《他者そのもの》を〈理解〉するのではありません。《他者そのもの》は自己にも,他者本人にも了解できないものだと思いますから。


「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?  ― 信じるという脅迫―」(住本小夜子,BLOG「鍛地頭-tanjito-」,2019.1.10)




人は誰しも自己のものの見方や考え方を持っています。それらは,その人の生きてきた環境(成育歴,家庭環境,友人関係及び広い意味での学力など)に気質も相俟って,つくりあげられたものです。ですから,その人固有のものと言って過言ではありません。したがって,いくら客観的に相手を観察したと述べても,所詮,それは相手を観察したその人固有のものの見方や考え方で〈観察〉したに過ぎないわけです。言い換えれば,〈観察した人が作り上げた相手〉でしかないということです。




余談になりますが,だからこそ,例えば,保育所・幼稚園・学校等には複数の保育士や教師等がいるというわけです。どういうことかと言うと,一人の乳幼児・児童・生徒(以下,「乳幼児等」)は様々な特性を併せ持つ多面的総合体ですから,たった一人の保育士・教師だけが,一人の乳幼児等を理解するには限界があるわけです。なぜならば,たった一人の保育士・教師では,その教師が持つ固有のものの見方や考え方を通して,当該の乳幼児等を理解することになり,当然,そこには〈偏った理解〉が生まれることになるからです。ですから,複数の保育士・教師の多角的な多視点から乳幼児等を〈理解〉することが必要となります。




ですが,複数の保育士・教師が〈観察〉したとしても,《一人の乳幼児等そのもの》を《理解》することはできません。その理由をジョハリの窓を例に考えてみましょう。ここで,ジョハリの窓を援用することに確からしさがあるのかと言えば,疑問の余地はあるのですが,分かりやすさを優先して,引き合いに出すことにします。





ジョハリの窓の模式図




つまり,上述した一個人又は複数による〈観察〉は,「開かれた窓」と「気づかない窓」を見取ることに成功するでしょう。しかしながら,「隠された窓」と「未知の窓」を見取ることは難しい。ただし,「隠された窓」については,〈観察〉の対象となった当人は「知っている」わけですから,通常の日常的な「対話」を通して,〈観察者〉もそれを知ることができるのです。普段,「他者理解」と言われているのは,この範疇ではないでしょうか? ところが,「未知の窓」については,〈観察者〉はもとより,〈当人〉ですら「知らない」,まさに《了解不能の領域》なのですから,ましてや〈観察〉は難しいことになります。





だからと言って,〈自己が形象化した他者〉による「他者理解」で終わってしまえば,《他者そのもの》に,つまりは,ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》することはできません。


同上




「鍛地頭-tanjito-」は,「未知の窓」=《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)と考えています。したがって,〈「開かれた窓」+「気づかない窓」+「隠された窓」〉を〈理解〉する(=所謂「他者理解」)だけでは,《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)を《理解》するまでには及ばないことになります。ただし,ここで強調して述べておかなければならないことがあります。それは,《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)は,相手にも当人にも《了解不能》であることです。しかも,それは〈各個人〉を突き動かす《総体的なエネルギー》を持つ了解不能の《他者》なのです。





ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》しようと,ありのままの《他者》との《対話》を続けることこそが《思いやり》であるとともに,これからの育児でもあるし,教育でもあるのです。


こどもも見えない自己内の了解不能の領域に,これまた同様に,それを見ることができない保護者が問いかけ続ける。


同上




これまで(=ポストモダンの時代)は,例えば,〈「開かれた窓」+「気づかない窓」+「隠された窓」〉を〈理解〉(=所謂「他者理解」)する〈教育〉でした。しかし,ポスト・ポストモダンの時代の《教育》は,《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)に《働きかける教育》が模索されるべきだと考えるのです。その《働きかけ》により,乳幼児・児童・生徒が自己内のありのままの《他者》に《対話》を継続し行おうとする。巷間ではよく「自分探しの旅」と言いますが,このありのままの《他者》に《自己内対話》を継続して行う《旅》こそが, ポスト・ポストモダンの時代の《自分探しの旅》ではないのかと思うのです。その意味において,ありのままの《他者》と《対話》を続ける自己外の主体(例えば,保護者(親)や教師など)の《働きかけ》は,了解不能の《他者》を《理解しよう/(《働きかけ》の対象に)理解させよう》とする,まさに《思い》を《やる(=送る・届ける)》,《思いやり》に他ならないのです。




「鍛地頭-tanjito-」の基本理念は〈恕〉です。「恕」(「如(~のように)」+「心(他者の心)」=〈他者の心のように〉)そのものが《相対化》された地平には,ありのままの《(自己内の他者を含む)他者》と《対話》を続ける《主体》が屹立してくるのではないでしょうか? この相(すがた)こそ,ポスト・ポストモダンの時代を生きる我々の《生の営み》であり,そうした《対話》を形成し,仕掛けることが《教育の営み》だと考えられるのです。





こうした育児・教育に〈こども〉が不在であることなどあり得ないことなのです。


こどものためではなく,保護者のための育児・教育など,初めから存在しないのです。


同上




このように考えてくると,広く《教育の営み》はこどもだけではなく,大人自身の《営み》とも言えるわけです。殊に育児・療育・(学校)教育に絞り込んで,〈自己内対話〉を考えるならば,《モノローグ》による《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)との《対話》だけでは,到底,《了解不能の他者そのもの》(=ありのままの《他者》)に《寄り添う》ことは困難であることが分かります。なぜならば,大人ですらそうした《モノローグ》は難しいわけですから。その《時点》で,大人(保護者,保育士・教師等)の《存在意義》が明確になるとともに,《教育》の《中心》が《こども》であり,《 大人(保護者,保育士・教師等) 》であることも判然とするのです。




以上が,前回のブログ「「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?―信じるという脅迫―」の補足となります。ただし,誠に申し訳のないことですが,完全な補足とはしていません。なぜならば,「 《他者そのもの》(=ありのままの《他者》)との《対話》 」の位置付けが,なぜポスト・ポストモダニズムと言えるのかについて,敢えて言及していないからです。




この点については,今回のブログだけではかなりの長文となり,用をなさないと思われますので(現時点で13,362語),次回に譲りたいと思います。
愈々,《一元論的トランスモダンの教育》との連関性が明らかになります。








※3 ここでは,紙幅の関係で詳述を控えます。詳しい内容については,本ブログと並行して投稿しております「The パクるな!!」のシリーズ(第3回)でお話させていただく予定です。
☞ 「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第1回)」
  「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第2回)」
  「「The パクるな!!」-オリジナリティーを求めて-(第3回)」(予定)




【参考文献】





  • 「語りの構造を踏まえた読みの授業に関する研究―古文の授業構築を中心に―」(小桝雅典,1998年(平成10)年度 広島大学大学院教育学研究科 教科教育科学専攻 国語教育学 修士論文)

  • 『21世紀に生きる読者を育てる 第三項理論が拓く文学研究/文学教育 高等学校』(田中実・須貝千里・難波博孝 編著,明治図書,2018.10)




【関連】









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2019年01月17日

塾長のカナダ武勇伝(?)―その4 語学研修Ⅲ-

カニイラスト(提供 イラストAC).jpg


みなさん,お元気ですか?
「生きる自分への自信を持たせる
鍛地頭-tanjito-」の副塾長,住本小夜子です。




今回も「塾長のカナダ武勇伝(?)」をお楽しみください。




↓これまでの記事は,こちらからどうぞ!!↓
【塾長のカナダ武勇伝(?)-その1 プロローグ-】
【塾長のカナダ武勇伝(?)-その2  語学研修Ⅰ-】
【塾長のカナダ武勇伝(?)-その3  語学研修Ⅱ-】




明日からのダイナミックな語学研修を前に,カニのようにブツブツとSurvival」を唱え続ける塾長。
そこは,バンクーバー島,ビクトリアの海が見える白いレストランでした…。








塾長:[Survivalか…,そうだよなあ…,Survivalだよ…,うん,Survivalだ,見知らぬ広大な街に,方向音痴で英語が話せないわしが,ひとり,投げ出されるんだぞ…単身で未開のジャングルをさまようようなもんだ…生きて帰られるのか!? 〔注:塾長! 大袈裟ですよ!〕…やっぱり,Survivalだよ,うん,Survivalだ! Survivalに違いない!]




塾長:…ぶつぶつ,ブツブツ…




おしゃれな白いレストランは,給仕もおしゃれでした。イケメンのウェイターたちが,ぞろりと揃い,中にはローラースケートを履いたイケメンもいます。そのローラースケートのイケメンウェイターは,普段,スケート技をちらっと披露しながら,テーブルにおいしい料理を運んでくれるのです。





右足の踵を付けて爪先を上げた,オレンジのタイヤが付いたグレーのローラースケート靴




塾長:[うん? そう言えば,あのローラースケートのイケメンウェイター,さっきから,ニコニコ,わしのことをじっと見とるわい。]




ローラースケートのイケメンウェイターは,料理が出される配膳口のカウンターに肩ひじを突きながら寄りかかり,長い右脚を前に組んで,スケートを履いた爪先を上げ,イケメンスマイルで塾長に熱い視線を送っているのです。




塾長:[そんなにわしのことが恰好ええんかのう。自慢じゃないが,日本じゃ,いっこもモテたことのないわしじゃが, さすがカナダじゃ!  同性に恰好ええと思われるということは,わしはほんまに恰好ええんじゃのう!〔注:おいっ!〕]




店内:ざわざわ,ザワザワ…ウォ~!




塾長:[なんじゃ!? 配膳口付近の客が小さな感嘆をもらしながら,ざわめいとる。ここからはよく見えんのう。]




店内:ザワザワ,ざわざわ,ザワザワ,ドウォ~!!




塾長:[な,な,なんじゃ!?]




塾長:[ウォ~,あのローラースケートのイケメン, 配膳口前で4回転しちょる! 羽生結弦と同じぐらいに回転が切れちょるで!!〔注:塾長! 時代が違いすぎま~す!!〕かっちょええ~!!]




塾長:[で,なんで,踊ってんの?]




塾長:[なんじゃ~!!! あのバカでかいカニは!?]




ローラースケートのイケメンウェイターの右手には,トレーから脚がはみ出てぶらさがった,赤い,大きな,大きなカニが,ギロリと塾長を見据えて居座っていたのでした。





大きなトレイに居座り,こちらをぎろりと睨みつける大きなカニ
注:写真の料理は本文中のレストランのものではありません。




塾長:[でけ~! カナダはなにカニとスケールが違うわい…いかん! スケールのでかい語学研修を思い出したわい! それにしても,あんなバカでかいカニ,誰が食べるんじゃ?]




店内:ウォ~,ウォ~,ピューピュー〔注:指笛の音〕




ローラースケートのイケメンウェイターはキレのある回転に,さらにキレを加え,テーブルの間を小気味よく,くるりんクルリンとすり抜けながら,とても楽しそうに給仕活動をこなそうとしています。




店内:ウォ~,ウォ~,ピューピュー




塾長:[あれを食べるのに何時間かかるんじゃろう? ひとりで食べるのか? まさか…どこのグループが頼んだんじゃ…? そんなグループは見当たらんぞ?]




ウェイター:さあ,どうぞ!!





大きなトレイから脚がはみ出た馬鹿でかいカニ
注:写真の料理は本文中のレストランのものではありません。




塾長:わしかー!!!




ウェイター:今日,僕は幸運です。このカニを運べたのですから。年に数杯しか出ませんからね。




店内:パチパチ,バチバチ〔注:拍手喝采〕




塾長:[な,な,なんてことだ! 確かにカニを頼んだが,こんなバカでかいのが来るとは思わんかったわい!! しかも,これって,スタンディングオベーションってやつか!? お客が立って拍手してるぞ! こっちに大挙して寄ってくる! 来るな~! わしは英語が話せんのんじゃ!]




ウェイター:お客様も喜んでおられます。応えてあげてください。




塾長:[来た~! だから,英語はムリって…〔注:顔面蒼白〕]




塾長はとっさに,中腰のまま,中途半端に立ち上がり,四方のお客様にぺこぺこ。敬礼した右手を遠慮気味に小刻みに振りながら,蚊の鳴くような声で,「Thank you…」を繰り返したのです。




温かい笑顔が塾長をぐるりと取り囲み,拍手は鳴りやみません。




塾長:[助けてくれ~,地獄じゃ~!]





両手で顔を覆い,大きな口を開け,嘆くゴリラ




塾長:[ふ~,ようやくお客が席にもどってくれたわい。それにしても,まだ多くのお客の注目を浴びとるなあ…。そうか,このバカでかいカニを食べるわしの雄姿を見たいんじゃなぁ。今度は恰好よくキメんといかんぞ! まずは,この脚から捥ぐとするか…えぃっ!]




塾長:痛て~え!




カニの硬い脚の棘は,見事に塾長の親指と人差し指を突き刺したのでした。ぷつんと赤い血の球が…。しかも,塾長は痛さのあまり,捥ぎ取ったカニの脚の一部を宙高く放り投げてしまったのです。赤いカニの脚の一部は,白いテーブルクロスの上をコロリンコロリン。




店内:Wow!! Ha! ha!




ウエイター:お客様,この「ハサミ」をお使いください。




塾長:[「ハサミ」? これって「ペンチ」じゃん!?]




副塾長:塾長のヒアリングのミスで「ハサミ」って聞こえたのかも?
塾長 :そんなことはないわい!!



塾長:[まあ,とにかく「ハサミ」だろうが,「ペンチ」だろうが,「スコップ」だろうが〔注:それはあり得ません〕,あるのならば,それを早く出してよ~!!]




ウェイター:よろしければ,これもどうぞ。




塾長:[それって,絆創膏じゃん!? 用意してたわけ~?? 〔注:そんなわけありません。〕]]




塾長:それにしても,この「ペンチ」を使って,どこから食べるんじゃ? ………とほほ,なんてこった…カニを食べるのでさえ,




「Survivalカニ~!!]




この白いレストランのカニ騒動は,明日から始まるダイナミックな語学研修のプロローグに過ぎなかったのです。




→つづく





馬鹿でかいカニ料理を前にして幸せそうに微笑むカップル
注:写真の料理及びカップルは
本文と全く関係がありません。



posted by tanjito at 22:25| 広島 ☀| Comment(0) | 塾長のカナダ武勇伝(?) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月10日

「楽(らく)な育児」は「楽(たの)しい育児」?―信じるという脅迫―


年明け早々,ふと布団の中で思ったことがあります。
「私のことを信じて」とか「あなたを信じている」といった言葉。
これって,相手に対する「脅迫」ではないのか…と。
相手の〈ありのまま〉を見取って発した言葉なのか…と。




抑々,遣い方や状況((社会的)コンテクスト)に応じて,言葉の持つ意味が180度変わる場合があります。
状況によっては,相手にとって良いことだと思い,発した言葉を,相手はそのように受け取っていなかったということはありませんか?




その背景にあるものは,本当の意味で相手を〈思いやる〉心の存否なのです。




ブログテーマを話す女性のキャラクター



0 プロローグ




「生きる自分への自信を持たせる「鍛地頭-tanjito-」」の副塾長 住本小夜子です。
メンタルケア心理士(心理カウンセラー)の試験を控え,頭がパンクしそうになりながら(笑),猛勉強を続けております。




心理学を学ぶようになり,これまで以上に他者(相手)の内面に目を向けられるようになったかなあと思います。
一つの言動によって,他者(相手)が何を考え,何を思い,何を感じているのか。そして,何を求めて,何を訴えているのか。
それらを見取り,寄り添っていこうとする力が付いてきたのかなあと思うのです。




さて,今回のテーマは,〈子育て支援の在り方〉についてです。
育児の悩みは尽きませんよね。こどもが成長するにつれ,悩みが軽減する場合もあれば,その逆の場合もあります。…〔量的課題〕
また,成長に伴い,こどもの理解度が増すことで自己解決できるものがある一方,成長段階特有の心身変化に伴う悩み(思春期,反抗期など)への対応など,こどもを取り巻く環境の変化も相俟って悩むことも少なくありません。…〔質的課題〕




「楽(たの)しく育児ができたら…。」と思わている方も多いのではないでしょうか? それとも,「楽(らく)に育児ができたら…。」と思われていますか?




「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」 。
一体,どこが異なるのでしょうか? それとも同じなのでしょうか?




私は思います。
何を重視するかで,「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」との相違が生じてしまうのだと。




では,その重視するものとは何なのか…。
私の実体験をもとにお話できればと存じます。




当塾が使用している〈 〉←この記号は「ギュメ(山括弧)」と言います。
「鍛地頭-tanjito-」では,この引用符を「メタ認知・〈相対化〉等により,
身の周りのあらゆる事象を俯瞰して見えてくる相」程度の意味合いで使用しています。
簡単に言えば,「(主体が捉えた)ホンモノの」ということでしょうか。
ですから,例えば,上述してある〈思いやりの心〉という言表は,
「ホンモノの思いやりの心」と解釈できます。




動物園で撮影した写真。水槽内で泳ぐペンギンが接近し,手を伸ばす母親とそれを見つめる息子。
【息子,初めての動物園(広島市安佐動物公園)】




1 助けを求めることは逃げることではない。




息子が2歳5か月の頃,急に子育てが難しくなってきました。それまでは,(気が付けば,)育児書どおりに育ってきた息子でしたが,月齢を重ねるにつれ,コミュニケーション上のやり取りにおいて,上手くできない状況が多く感じられるようになりました。




例えば,
・毎日,何度も何度も同じ注意を受ける。
・特定の物事に対して自己主張が激しい。
・初対面の人に警戒心が全くなく,極端に馴れ馴れしい。
・他者との間で,「貸して」「どうぞ」のやり取りが上手くできない。
などといったことが目立ち始め,「私の躾方が悪いのだろうか?」と毎日悩んでいました。




この頃はまだ,息子が軽度の自閉スペクトラム症とはわからなかったので,とにかく躾が大切だと思い込み,厳しくしていた現実がありました。
しかし,私(だけ)がどんなに頑張っても上手くいかない。
育児ノイローゼになっていたのでしょうね。
「このままでは息子を殺してしまうかもしれない」という恐怖心が生まれ,泣きながら地区の民生委員の方に架電したのです。




電話で少しお話をしただけなのですが,私の状況(心境)を察知され,「今すぐ来ることは可能ですか?」と,即座に面談の席を設けてくださいました。




面談中,民生委員の方が次のようなことをおっしゃいました。
「住本さんは,自分の状況や感情に気付くことができたから大丈夫。」
「ここに気づかず,いや,たとえ気づいていたとしても,自分の状況を客観的に見ることができなくなってしまっていたら,育児放棄や虐待をしてしまう人が多いのですよ。」




自分の置かれた状況に気づく場合とそうでない場合との相違について考えてみると,そこに〈こども〉の存在が保護者とどのような関係性にあるのかが浮き彫りとなります。
私の場合,〈息子のために〉という気持ちが大きく働いていました。だから,私がどんなに頑張っても好転しない状況を客観的に見つめることができ,「このままでは,息子のために何もよくならない」と判断できたのです。
しかし,〈こどものため〉という想いが存在しなかったとしたならば,「なぜ私(保護者)だけが辛い思いをしなければならないのか」という衝動に埋没するしかなくなります。したがって,「自分さえ良ければ,それで良い。」という情動が生じ,〈こども〉の存在が消滅していることによって,育児放棄や虐待につながるのではないかと考えるのです。




面談で胸の内を明かしていくと,民生委員の方は,
「こどもと離れる時間を作った方がいい。」
「お母さんは一人で頑張りすぎ!! ゆっくりできる時間が必要!!」
と話されながら,あれやこれやと手続きを進めてくださいました。そして,息子の様子も落ち着いているからと,その日のうちに一時預かり保育を利用させてくださったのです。




初めて息子と離れる時間…。
いつ以来なのでしょう…?
それさえ思い出せない,一人で過ごす時間…。




煮詰まり過ぎていた自分に気付いたとき,息子もまた辛い思いをしていたのだと気付いたのです。




私がしてきた躾は,本当に息子にとって適切な方法だったのか?
大人の価値観でしかない,自分本位の方法になっていたのではないのか?
息子の気持ちに寄り添えていたのか?
いろいろなことを脳裡に思いめぐらせながら,最後にたどり着いたところにあったものは,「息子が愛おしい」というただその想いだけでした。




私は「息子が幼稚園に入園するまでは,自分(だけ)が責任をもってしっかりと育児をする」と決めていました。必然的にこどもとの時間が最も多いのは私であって,誰が助けてくれる訳でもない。
辛い気持ちや上手くいかないことをひた隠しにしながら,「いつでも良いお母さん」を演じている自分がいました。




親としての責任がある。周りの目が気になる。
だから,私がしっかりしないといけない。私がやるしかない…と。
いつしか,この強迫観念に近い責任感が自分自身の首を絞めてしまい,感情のバランスが崩壊してしまったのだと思います。








誰かに助けを求めることは,決して逃げることではありません。
話を聴いてくださる方が1人でもいてくだされば,心に伸し掛かる大きな負荷は軽減されます。私の実感です。




確かに,思いを打ち明けることは,本当に勇気のいることです。
だからこそ,それは決して逃げることではありません。
自らに対して立ち向かうことなのです。




逆に,助けを求めないことは自分だけを守ることなのです。
「誰かが私を誹謗するのではないか?」
「周囲から出来の悪い母親と思われるのではないか?」
みんな,「人」なのだから,このような思いに囚われることは止むを得ないことなのかもしれません。




しかし,そうした感情が湧出するその心底には,
「自分はいい人でいたい。」
「自分を守りたい。」
「自分が可愛い。」
といった識閾※1下の感情があるはずなのです。




そして,そこにこどもの姿はありません。
〈こどものため〉に立ち向かう保護者の姿もないのです。




こどもと私は,私が自らの胸中を包み隠さず,解放することで,他者に救っていただけたのです。




「誰に,何を思われてもいい!!」
「恥曝しと思われてもいい!!」
「ただ目の前にいる息子を守りたい!!」




ただこの一心が,私たち母子の運命を変えたことは言うまでもありません。




※1 「コトバンク」には,次のようにあります。





精選版 日本国語大辞典の解説


しき‐いき ‥ヰキ【識閾】


〘名〙 心理学で、刺激によって感覚や反応が起こる境界。無意識から意識へ、また、意識から無意識へと移るさかい目をいう語。


出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について







人生の分かれ道を現した画像,右か左かの選択を求められる。




2 何を求めているのかを察知する能力




意を決して助けを求めたことが契機となり,定期的に一時預かり保育を利用するようになりました。
元々,生後3か月から,ほぼ毎日オープンスペースにも通っていましたが,そこは必ず保護者が同伴します。
一方,一時預かり保育には保護者は同伴しません。
一時預かり保育では,親ではない大人からの教育や集団生活で教わり学ぶこともたくさんあるだろうし,私も自分のリフレッシュとして,こどもを預けている間,有効に時間を過ごすことができるからと考え,利用していたのです。




そうこうしているうちに,育児のサポートをしていただけるところがあると紹介を受け,別の相談窓口へと足を運びました。




対応してくださったスタッフの方は終始,「辛かったね~。」「大変よね~。」と共感(?)してくださったものの,なんだかモヤモヤして気持ちがパッとしないのです。なぜならば,私が求めていた「アドバイス」が何も出てこないから。




私の「どうすればいいですかね?」という問いに対し,1つでもいいからアドバイスが欲しいと思っていました。しかし,話せば話すほど「他に辛いことや聞いてほしいことはないですか?」と訊かれるばかり…。「楽(たの)しい育児」をするために何か良い案を頂けるのだろうと期待して行ったのに,なんだか私のプライベートを暴露しただけで,チェックされるだけされて,気分を害して帰宅したのでした。




通い慣れたオープンスペースに久々に顔を出したときでした。
保育士さんに上述した件について話すことができました。
助けを求めるときに誰に話すか迷った事実も伝えました。




「保育士さんには,いつもお世話になっているからこそ話せませんでした。」とウルウルしながら話を切り出すと,「相談してなにかアドバイスもらえた? もらえんかったじゃろ?」と保育士さんはその場面を恰も見ていたかのようにおっしゃいました。




「相談に来た人が何を求めて来ているのか理解できてないんよ。ただ「うんうん」と共感(?)しているだけじゃ何も解決せんのに。私たちは,このオープンスペースに来るお母さんとお子さんをしっかりと見ているんです。だから何も遠慮せず,困ったことがあれば訊いてください。親子の様子を見ているからこそ,的確なアドバイスができるんじゃけん。ね。」




その瞬間,我慢していた感情があふれ,目頭が熱くなったのを覚えています。




やっとの思いで打ち明けたのに,モヤモヤしたままでは,また自らの殻に閉じこもってしまいます。誰に助けを求めるのか,誰に打ち明けるのか。その選択を誤らないためには,日常の人間関係の構築(他者とのネットワークづくり)であったり,初対面であるからこその安心感が不可欠となったりすると実感しました。




このように考えてくると,前回のブログで塾長が述べていましたが,相談する側にも,される側にも,まずは〈傾聴〉※2の姿勢が必要なのだと思います。それとともに,多面的・多角的・総合的に(この場合,)多様な(社会的)文脈(コンテクスト)から得る情報を総括して,他者(相手)の心理を捉えようとする多視点を持った「心の理論」※3の形成が大切だとも思うのです。
例えば,カウンセラーもそのクライアントも。




そして,何より自分の心を他者(相手)の心のごとく開く〈思いやりの心〉が大切なのです。他者(相手)からも自分からも見えない相手/自分の心の領域※4に心眼を開こうと努力することが重要なのです。




確かに,その心の領域は自分にとっても,他者(相手)にとっても了解不能のものなのかもしれません。しかし,その心の領域に辿り着こうとする努力が肝心だと思うのです。それが当塾の基本理念でもある〈恕〉※5の相(すがた)でもあります。




※2 「傾聴」については,こちらをご参照ください。:「教師視点から考える「保護者等―教師(学校)」間の関係性について〔第2回〕」
※3 「心の理論」については,こちらをご参照ください。:「軽度自閉スペクトラム症のこどもと心の理論(theory of mind)」
※4 「ジョハリの窓」で例えると,「未知の窓」(「自分は知らない」かつ「他人は知らない」領域)のこと。詳しくは,当塾のブログ「自己理解と他者理解とが育む自己成長」をお読みください。
※5 詳しくは,当塾ホームページの「基本理念」及び「教員採用試験合格道場ーオンライン「鍛地頭-tanjito-」」の「第4節 「恕」の理念」(「第1章 【「地頭(総合的な人間力)」を鍛える教員養成】)をお読みください。




3 「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」の相違




「鍛地頭-tanjito-」の業務は,常に「こども第一」です。塾長も私も,常にこどもを中心に物事を捉えています。
それは,大人の勝手な個人の価値観で,こどもの可能性(未来)を潰してはならないと考えているからなのです。





オープンスペースにおいて交流する親子。
【オープンスペースでの様子。写真中央にいるのが息子。(広島市安芸区)】




どこにおいても,育児支援は存在します。
しかし,中にはこどもの可能性を脅かしているものが伺われ,大人の勝手な解釈(営利を含めた損得勘定)による,名ばかりの育児支援が蔓延しているのも事実です。




「その育児,大人の自己中心的な押しつけになってはいませんか?」
「その育児,その支援方法は,本当に〈こどものため〉のものなのですか?」
「「こどものため」とは言いながら,本当は自分(保護者)のためだけなのではないですか?」
と声を大にして言いたい!!





まず第一は、〈子育て支援〉の対象は誰かということです。子どもへの直接的な支援なのか、子どもと親をセットにした支援なのか、子どもを育てる親への支援なのか、親たちのグループづくりの支援なのか、親たちのグループづくりを進める人たちへの支援なのかをはっきりさせ ることです。また「子ども」を対象とする場合も、主に乳幼児期なのか、それとも思春期まで含むのかを明確にする必要がありますし、「親」を対象とするという場合も、母親中心ではなく本格的に父親を担い手にする(単なる「参加」ではなく)取り組みになっているのかどうか、子どもの育ちにかかわる祖父母世代や地域の人々の関与をも支援の対象に含めて構想するのかなどを明らかにする必要があるでしょう。


「第2章 子育て支援の概念を整理し理念を構築する」(社会福祉法人 日本保育協会,子どもが育ち 親も育つ 地域がつながる子育て支援 新しい子育て文化の創造をめざして-地域における子育て支援に関する調査研究報告書-,平成23年,p.17)







第二に、〈支援〉の内容と方法を明らかにする課題です。子どもを育てる困難を軽減するための支援(負担軽減・代理活動)なのか、それとも子どもを育てる力の育成にむけての支援(主体性の育成・教育活動)なのかという点です。後者の場合でも、「主体性の育成」をどのように行うのか、何に注目し、どのような方法で育成をはかるのかをはっきりさせることです。それらは、従来の「保育技術」「教育技術」「社会福祉援助技術」「カウンセリング技術」とどう違うのかの検討も必要です。


前掲資料 ,pp.17-18






また,平成24年8月に成立した「子ども・子育て支援法」の基本理念には,次のように記述されています。





(基本理念)
第二条 子ども・子育て支援は、父母その他の保護者が子育てについての第一義的責任を有するという基本的認識の下に、家庭、学校、地域、職域その他の社会のあらゆる分野における全ての構成員が、各々の役割を果たすとともに、相互に協力して行われなければならない。


「子ども・子育て支援法」(平成24年8月22日法律第65号)






上記の資料や法律を元に,私が定義する「楽(らく)な育児」と「楽(たの)しい育児」は次のとおりです。




「楽(らく)な育児」の主体は一個人の大人だけである。
自分にとっての損得しかなく,自分さえ良ければそれで良い。こどもや周りの者に自らの価値観を押し付けるだけなので,気持ちに寄り添うことは到底できない。したがって,こどもを心から〈理解〉することはできない。




「楽(たの)しい育児」の主体は家族である。
大人は,こどもにとって何が最善なのかを常に考え,協力し合う。こどもの気持ちに寄り添い,家族みんながこどもの〈ありのまま〉※6に接しようと努めているため〈理解〉を深めることができる。ただし,〈ありのまま〉に接することは,一般的に述べる「甘やかすこと」では決してない。




家事・育児ストレスがたまると「手を抜いたほうがいいよ。」とよく言われると思います。ですが,「手を抜くこと」は「楽(らく)をする」ことでは決してありません。




「〈こどものため〉に,保護者が心に余裕を持ち,晴れやかな心で〈こども〉と接する。」




〈こども〉の存在があるからこそ,育児は成り立つのであって,大人を対象とする育児など存在しません。
「楽(らく)に育児をしたいから手を抜く」という行動は,大人が楽(らく)になったらそこで完結します。
「〈こどものため〉に楽(たの)しく育児をしたいから手を抜く」という行動であれば,目的は「〈こどものため〉」なので,手を抜いて余裕ができた分だけ〈こども〉とふれあうことができるのです。




例えば,家事の負担を減らすために圧力鍋を使った調理をしたのならば,調理時間の短縮ができます。家事に追われる時間が少し減ったことに満足して終わることなく,時間短縮で得た心の余裕を,こどもと接する時間に活用していただきたいと思うのです。
繰り返しますが,抑々,〈こども〉の存在がなければ,育児も教育も成り立つことはありません。




〈育児支援〉は大人が楽(らく)をするためのものではなく,家族が笑顔で過ごせるようにサポートするためのものだと,私は考えています。




※6 「鍛地頭-tanjito-」の解釈では,「ジョハリの窓」を例に挙げると,「開かれた窓」「隠された窓」「気づかない窓」「未知の窓」の全て,すなわち,〈ジョハリの窓〉そのものを指します。特に,「未知の窓」は了解不能の側面を持つと考えています。したがって,〈ありのまま〉とは,例えば,欲しいおもちゃを強請って道路上にひっくり返り,泣きじゃくるこどもの態様などの表層を表現するものでは決してありません。




4 「信じる」という脅迫




言葉というものは,遣い方やシチュエーション((社会的)コンテクスト)で全く意味の違ったものになる場合があります。




では,次に述べる「信じる」とは,抑々,どのような意味合いがあるのでしょうか?





【信じる】(信ずるに同じ)
1 疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。
2 疑うことなく,たよりとする
3 神仏などをあがめ尊び,身をまかせる。信仰する。


三省堂 大辞林
(下線及び強調は住本が施しました。)






「1 疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。」
これは,どのような状況が想定されるのか…。




例えば,「私を裏切らないと信じている。」「私に嘘をつかない人だと信じている。」といったように,私(自分)が主体となっており,自分にとって都合の良い解釈の場合には思い込みによる「信じること」が現れるように感じます。




何か自分にとっての不都合が生じたとき,
「私はあなたを信じている。だから,私のことも信じて。」というセリフを述べるならば,それは条件付きの脅迫となるのではないでしょうか。
言い換えるなら,「私はあなたを裏切らない。だから,あなたは私を裏切ってはいけない!!」となりませんか?




育児に関していえば,
「お母さんを困らせることはしないと信じているからね。」という言葉は,「お母さんを困らせることをしたら許さないからね!!」と変換されるのです。




次に,「2 疑うことなく,たよりとする」ということには,「全く何も確信のない状態にあっても信じる」という状況も含まれます。




巷間には,「信じる者は救われる」という言葉がありますが,果たして本当にそう言い切れるのでしょうか。




「信じていたのに裏切られた!!」という経験はありませんか? 私はあります。当時の私には,相手を判断する能力が乏しかったのです。そこに揺るがない信念や根拠があるのかどうかを見極める能力(心眼,心の理論)は必要であると思います。





誠実でなければ、
人を動かすことはできない。
人を感動させるには、
自分が心の底から感動しなければならない。
自分が涙を流さなければ、
人の涙を誘うことはできない。
自分が信じなければ、
人を信じさせることはできない。
- ウィンストン・チャーチル - 
(英国の政治家、ノーベル文学賞受賞 / 1874~1965)


人間関係の名言・格言集(職場や友人関係に悩む人,癒しツアー)






偽りで人の心を動かすことができたとしても,それは偽りでしかないのです。いつかその化けの皮は剥がれるし,そうなったときの信用や信頼は一瞬にして〈無〉に帰します。




「信じる」「信じない」という自分本位の感情ではなく,「信じてもらえる自分になること」に重点を置くことです。背伸びをしなくても,本来の自分で偽りなく〈思いやる心〉で接し,他者を〈信じて〉いれば,自ずと人はついてきます。





広島県の厳島において,手を取り歩く親子。
【厳島(広島県)にて息子と手をつなぎ歩く】





「言葉は、裏表それぞれ2つの顔を持ち、だれが言葉を使おうと、その2つの顔を消すことはできない。言葉とは、目に見えない隠された狂気である。」


「言葉という狂気」,住本小夜子のブログ(2009年4月13日)






住本:上述した文章は,私がいじめを受けた中で感じた言葉の持つ〈職能〉について,高校2年生の時に,書き記したエッセイ『言葉という狂気』という章の一節です。
本ブログを読んだ塾長に「高校生の時から,シュレーバーを知っていたのか? フロイトも?」と訊かれました。
というのも,『言葉という名の狂気』という書物が存在しているのだそうです。
当時の私は,書物を読むということが苦手でしたので,当然そのような書物が存在していることも,シュレーバーやフロイトという人物がいることも全く知りませんでした。

日本の古本屋(『シュレーバー 言葉という名の狂気』(渡辺哲夫,1993,¥1,000))



言葉一つとっても,その意味は計り知れない。 だからこそ,物事を固定観念で決めつけるのではなく,「多角的・多面的・総合的」に判断できる人になるように,まずは大人が自分を磨き,そして子育て(支援)を行う必要があるのです。




自己のフィルターを通して捉えた他者は〈自己が形象化した他者〉であり,一般に,これを「他者理解」と呼ぶのですが,それは《他者そのもの》を〈理解〉するのではありません。《他者そのもの》は自己にも,他者本人にも了解できないものだと思いますから。




だからと言って,〈自己が形象化した他者〉による「他者理解」で終わってしまえば,《他者そのもの》に,つまりは,ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》することはできません。




ありのままの《他者》に《寄り添い》,《理解》しようと,ありのままの《他者》との《対話》を続けることこそが《思いやり》であるとともに,これからの育児でもあるし,教育でもあるのです。




こどもも見えない自己内の了解不能の領域に,これまた同様に,それを見ることができない保護者が問いかけ続ける。




こうした育児・教育に〈こども〉が不在であることなどあり得ないことなのです。




こどものためではなく,保護者のための育児・教育など,初めから存在しないのです。




5 エピローグ




私は,メンタルケアカウンセラー®として育児・教育支援を行っていく上で,当塾に来られた相談者(クライアント)だけが「楽(らく)」になるようなサポートはしたくありません。相談者であろうと教員になりたい方であろうと,その悩みには必ず〈こども〉の存在があります。




私は,上述した保育士さんのように,〈こども〉に基軸を据え,〈こども〉にも〈保護者〉にも,心から寄り添うことのできる心理士を目指します。育児の大変さを経験しているからこそ,分かち合い理解できることもたくさんあります。





「富貴は浮雲のごとし」 
- 孔子 - (中国の思想家、儒家の始祖 / 紀元前551~紀元前479)
【意味】 人の道に外れて得た富や地位は、浮き雲のようにはかないものだということ。


孔子の名言・格言集(『論語』として世界に生きる言葉,癒しツアー,p.3)






予測不可能な時代に取り残されないために,常に新しい情報や知識を取り入れることを疎かにしてはいけません。世界の未来を《相対化》するため,取り入れた知識をもとに訓練を重ね,〈生きて働く知識〉を習得し,日々研鑽する姿勢を忘れてはなりません。
こどもたちの輝く未来のために,〈質の良い支援〉を行うためには,まず大人の意識改革が必要であると,私は考えます。




「楽(たの)しい育児」が「楽(らく)な育児」になってはならない!!
家族みんなが笑顔でいられる。そのサポートをさせていただくために,たくさんの出会いや交流,貴重な御縁を大切にし,これからも,「鍛地頭-tanjito-」は〈憩い〉と〈思いやり〉をお届けして参ります。




幻想的なピングのチューリップ。


posted by tanjito at 17:28| 広島 ☁| Comment(0) | 「鍛地頭-tanjito-」の教育論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする